『花と毒』
公爵の執務室には、厳かな薄闇が垂れ込めていた。
魔導書と地図で埋め尽くされた書棚の前、ローレンス・ダグラスは窓辺に立ち、灰色の風に翻る公爵家の旗を見つめていた。
静かに扉が開き、カレブが入ってくる。
「父上……騎士たちは森へ向かうのですか?」
抑えた不安をにじませながら、少年は問いかけた。
「ああ」
ローレンスは振り返らずに答える。
「王国より正式な任務を受けている」
「……僕も同行できますか?」
「だめだ。今回の指揮官はお前の母だ。お前まで守る余裕はない」
その言葉に、カレブは視線を落とし、拳を強く握りしめた。
「でも……ルシアンは行くじゃないですか。なぜ彼だけ特別なんです?
彼がイプシロンで、僕がただのデルタだからですか?
将軍たちが噂しているのを聞きました……彼のほうが公爵の後継者にふさわしい、と」
その瞬間、ローレンスは鋭く振り返った。
威厳に燃える瞳が、息子を射抜く。
「二度とそのような戯言を口にするな」
低く、しかし絶対的な声だった。
「後継者を決めるのは私だ。そして決めた。次期公爵はお前だ。
この公爵領で、私の言葉に逆らう者などいない」
カレブは小さくうなずいた。
だが、胸の奥でくすぶる疑念の火は消えなかった。
執務室を出た直後、彼は一人の侍女とすれ違った。
その腕には、アーメット家の紋章が刻まれた、上品な箱が抱えられている。
「それは誰への贈り物だ?」
何気ないふりをして、カレブは尋ねた。
「ルシアン様へでございます、若様」
侍女は深く一礼する。
「イザベラ・アーメット様より届きました」
「……少し見せてもらえるか?」
「で、ですが……カレブ様。ルシアン様のお品に触れたと知れたら、奥様がお怒りに……」
彼は聞こえないふりをし、そのまま侍女の後を追った。
たどり着いたのは、異母兄ルシアンの私室だった。
ソファに身を預け、分厚い魔術書を読んでいるルシアンが顔を上げる。
「どうしたんだ、弟?」
「なぜイザベラから手紙が来たのか、知りたいだけだ」
「さあ?」
ルシアンは穏やかに答えた。
「自分で読めばいい」
机の上には、丁寧に綴られた手紙と贈り物が並んでいた。
カレブはそれを手に取り、小さく読み上げる。
――
『ルシアン・ダグラス・ザ・モンドリング様
ご負傷の回復を心よりお祈り申し上げます。
ささやかではありますが、フルートの技を磨く助けになればと思い、贈り物をお送りいたしました。
もし演奏についてご助言が必要でしたら、いつでも喜んでお力になります。
敬具
イザベラ・アーメット』
――
「ずいぶん丁寧だね」
ルシアンは微笑んだ。
「礼儀正しい子みたいだ」
「……ああ」
カレブは濁った光を宿した目で答える。
「本当に……特別な人だ」
「心配しなくていい」
ルシアンは本を閉じる。
「僕は彼女に興味はないよ」
カレブは歯を食いしばったが、何も言わずに背を向けた。
扉を開けた瞬間、そこに立っていたのはソフィアだった。
氷のように冷たい視線が、彼を射抜く。
「カレブ、何をしているの?」
刃のような声だった。
「何度も言ったはずよ。ルシアンに近づくな、と」
「申し訳ありません、公爵夫人」
彼は頭を下げる。
「少し質問をしただけです。もう二度としません」
「行きなさい」
それだけを告げ、彼女は視線を逸らさなかった。
カレブは立ち去りながら、背中に焼きつく屈辱を噛みしめた。
扉が閉まるのを見届け、ソフィアは小さく息を吐く。
――この屋敷の沈黙は、裏切りの匂いを帯び始めていた。
数日後。
帝国の喇叭が鳴り響き、王都は騒然となった。
深紅の旗を掲げたフェルッシ帝国の馬車列が城門をくぐる。
その中でもひときわ目を引くのは、銀の装飾と黒き鷲を刻んだ一台――
第九皇子、レオポルド・フェルッシ・ファブリーニの御車だった。
鋼のような青髪、冷たい宝石のような緑眼。
その隣には、第十二軍団将軍――“ジャッカル”の異名を持つマーカス・ヴァレンタインが並び立つ。
貴族たちは敬意と警戒を入り混ぜた視線を向けた。
王宮の階段では、皇族の側室アレッシア・フェルッシが彼らを迎える。
「久しぶりね、レオポルド」
作り笑いを浮かべて言う。
「姉上」
彼は手に口づける。
「会えて嬉しいよ。だが……こんな辺境での生活は、さぞ原始的だろう?」
「悪くはないわ」
アレッシアは外交的な微笑みを保つ。
「帝国はどう?」
「順調さ」
肩をすくめる。
「ただ、馬鹿げた任務を押し付けられてね。
農民の王女と婚約しろ、だとさ」
「怒らないで」
彼女は声を潜めた。
「この国の人々は帝国とは違う。礼拝も饗宴も期待しないで。
お願い……計画を壊さないで」
レオポルドは苦々しく笑った。
「寛容?
この田舎者どもが、皇子たる私を侮るとでも?」
玉座の間に足を踏み入れる。
歓迎の音楽も、花弁の絨毯もない。
ただ大理石に響く足音だけ。
王フェリペ・エルクハムは静かに立ち上がった。
「ようこそ、レオポルド皇子」
「ずいぶん冷たい作法だ」
皇子は毒を含んだ笑みを浮かべる。
「皇帝陛下に、礼儀作法の教師を送るよう進言しようか」
王は動じない。
「不要だ。帝国には帝国の流儀があり、我らには我らの流儀がある。
気に入らぬなら、いつでも帰られよ」
レオポルドは唇を噛み、怒りを仮面で覆った。
「結構。数日滞在しよう。
……婚約者に会いたい」
王は眉を上げる。
「訂正しよう、皇子。
その申し出を、私は一度も受けていない。
姫は、あなたの所有物ではない」
沈黙。
皇子の表情に影が落ちる。
「……それが最終決定か?」
低く、脅しを帯びた声。
「帝国の報復が怖くはないのか?」
空気が張り詰め、嵐の前触れのように震えた。
その瞬間、二つの国の運命は、剣の刃のように細い糸に委ねられた。
喇叭の音が再び玉座の間に響く。
黄金の扉の前で、伝令が高らかに告げた。
「――ソフィア・ダグラス・ザ・モンドリング公爵夫人、入場!」
黒檀の大扉が開き、ざわめきは一瞬で消えた。
蒼紺のマントを翻し、ソフィアが悠然と歩み入る。
その傍らには、馬車ほどもある銀鬣の獅子。
炎を宿した瞳が告げていた――
一歩でも誤れば、死あるのみ。
レオポルドは思わず後退した。
蒼白な顔で、マーカス・ヴァレンタインの背後に身を寄せる。
(――よく喋り、まるで聞かない皇子だ)
マーカスは思う。
(戦場では、それは死刑宣告に等しい)
獅子が低く唸り、燭台が震えた。
ソフィアは玉座に一礼する。
「陛下。森の探索に向け、全軍の準備が整いました」
フェリペ王は威厳をもってうなずく。
「よく来てくれた、公爵夫人。
我が軍はジョシュア・エルクハム将軍が指揮する。
編成については彼と協議せよ」
「承知しました、陛下」
「下がってよい」
ソフィアは帝国の使節団に一瞥もくれず、踵を返した。
彼女にとって彼らは、傲慢な影――
絹をまとった虫にすぎない。
いつか、踏み潰す存在だ。
マーカスは獅子を冷静に観察した。
筋肉、重心、殺意。
結論は一つ。
――勝てる。だが、生き残れない。
しかも、ソフィア・ダグラスには、あと二体の魔獣がいる。
皇帝――唯一のイプシロン級チャンピオンであっても、勝利は保証されない。
沈黙を破ったのは皇子だった。
「陛下、なぜあのような獣を外交官の命を脅かすままに?」
王は冷ややかに答える。
「帝国の人間は、ずいぶん臆病らしい。
……あなたへの評価が、また下がった」
「そこまで攻撃的になる必要はないでしょう」
レオポルドは引きつった笑みを浮かべる。
「我々は家族なのですから」
「今のところはな」
王は冷淡に言い放つ。
「休むがよい、皇子。
今夜は宴がある。
……望むなら、参加を許そう」
沈黙が判決のように落ちた。
ソフィアは去り、
遠くで獅子の咆哮が響く。
それは――
避けられぬ災厄の前触れだった。




