『森との誓い』
夕暮れの霧の中を、ダグラス家の紋章が金色に刻まれた馬車が進んでいた。石畳を踏みしめる車輪が軋み、陰鬱で静まり返った景色がゆっくりと流れていく。馬車の中には、ルシアンとその母――ダグラス家当主、ソフィア・ダグラス伯爵夫人の姿があった。二人は屋敷への帰路を共にしていた。
「母上、王太后とは何を話していたんですか?」
沈黙を破るように、ルシアンが控えめな好奇心をにじませて尋ねた。
「学院が深刻な被害を受けたわ」
ソフィアは、紅に染まりつつある地平線から目を離さずに答える。
「一か月間、すべての活動が停止される。その間に私たちは森へ入るの。魔獣が狂暴化した原因を調べ……そして、あの悪魔崇拝の教団が本当に潜んでいるのかを確かめるわ」
「兵を送るつもりなんですか? 危険すぎませんか?」
「ええ。すべての貴族が部隊を派遣することになるでしょう。前例のない大規模な討伐になるわ。今ここで解決できなければ、学院は移転せざるを得ない」
「……うちの騎士団は、誰が率いるんです?」
「私よ」
迷いのない声だった。
「ローレンスは王国の裏切り者を追っているわ」
「母上……森は危険です」
ソフィアは小さく微笑むと、いたずらっぽくルシアンの頬をつまんだ。
「それを言うの? 五分に一回は命の危険に飛び込む坊やが」
「ちょ、やめてくださいよ!」
ルシアンは笑いながら、やさしくその手を払う。
「でも、だったら僕も連れて行ってください」
「だめ。あなたを危険にさらすつもりはないわ」
「じゃあ、僕が残ったら? ウンバーを一緒に置いていくんですか?」
「そんなわけないでしょう。あなたを無防備になんてしない」
「だったらなおさらです。母上には森で三体の魔獣がついている……僕が一番安全でいられる場所は、母上のそばですよ」
ソフィアは面白そうに片眉を上げた。
「お世辞が上手ね。でも連れて行かないわ。ラリエットとサンダーがいれば十分よ」
「母上……僕がどれだけ成長したか、見てほしいんです。信じてください。あなたの息子にふさわしいと、証明させてください」
馬車が橋を渡り、大きく揺れた。
ソフィアは彼を優しく見つめ、しばらく沈黙した後、ため息をついた。
「……わかったわ」
ついに折れる。
「でも、片時も私から離れないこと。破ったら、帰ってからお仕置きよ」
オアシス・ホテルは、貴族街の中心にそびえる大理石とガラスの宮殿のような建物だった。
琥珀色のランプに照らされた個室では、ノア・アーメット伯爵とその娘イザベラ、そしてトマス・デニス伯爵と息子ロレンツォが向かい合っていた。
熟成されたワインと、毒を含んだ外交の匂いが漂っている。
「娘とあなたの息子の婚約について、検討していただけましたかな、トマス伯爵?」
ノアは指を組み、穏やかな声で切り出した。
「ええ、考えましたよ」
トマスは丁寧な笑みを浮かべる。
「ですが、難しいでしょう。私の娘には、より良い縁談がありますので」
「しかし、ずいぶん長い間、どなたも選ばれていないようだ。もしかすると、彼らには娘さんの心を射止める力がなかったのでは? その点、私の息子なら――」
「焦る必要はありません」
トマスは遮るように言った。
「待つことも、また賢明な選択です」
そのとき、ロレンツォが軽い調子で立ち上がった。
「父上、イザベラ嬢を庭園にお連れしてもよろしいですか? その間に、あなたはノア伯爵とお話を」
トマスは疑いもせずうなずいた。
イザベラは気乗りしない様子で立ち上がり、彼の後を追って中庭へ向かう。花の香りも、張りつめた策謀の空気を完全には消せなかった。
「イザベラ嬢」
ロレンツォは形ばかりの礼をする。
「今日も実にお美しい」
「褒め言葉は結構ですわ」
彼女は冷ややかに返した。
「はっきり申し上げますが、あなたには興味がありません」
ロレンツォは笑みを保ったまま、内心では怒りを煮えたぎらせていた。
――くそったれめ。
「与えられた好機を拒むものではありませんよ。美しさは永遠ではない……いつか必ず失われる」
「その日を、喜んでお待ちしますわ。ロレンツォ様」
イザベラは一切動じなかった。
そのとき、上品な身なりの男が静かに近づいてきた。
「イザベラ嬢」
柔らかな声で言う。
「こちらは私の友人、エルトンです」
エルトンは一礼し、手を差し出した。
イザベラも礼儀正しく応じる。
「お会いできて光栄です」
――その瞬間、世界が消えた。
思考は白く塗り潰され、瞳から光が失われる。
「……終わったのか?」
ロレンツォが緊張した声で囁く。
「ああ」
エルトンは低く荒れた声で答えた。
「だが急げ。この能力は長く持たない」
「なら、カレブ・ダグラス・フローレンス宛の手紙を書かせろ。そのために支配しろ」
ロレンツォは残酷な笑みを浮かべた。
数分後、魔法は解けた。
イザベラは瞬きをし、困惑した表情を浮かべる。インクに汚れた手。虚ろな視線。
ロレンツォは心配そうに身をかがめた。
「大丈夫ですか、イザベラ嬢? 気を失いかけていましたよ」
「……失神?」
彼女は首を振る。
「いいえ……覚えていません……」
「ご両親のところへ戻りましょう」
彼は腕を差し出した。
「きっと心配されています」
イザベラはうなずき、迫り来る運命の影に気づかぬまま歩き出す。
テーブルの上には、まだ乾いていない一通の手紙が残されていた。
それはやがて、王国を嵐へと引きずり込む名を封じたものだった。
イザベラは小さく会釈し、なおも思考を覆う霧に包まれたままロレンツォの後を追う。
一歩ごとに胸が締めつけられるような感覚が残る。
――忘れてしまった何か。
忘れてはならなかった、何かを。




