訓練
ソフィア公爵夫人の直命により、
最初に彼を追い詰めたのは――アルベルトだった。
彼は幼少期からルシアンの後見人であり、剣の師であり、守護者でもある。
ダグラス邸で彼に逆らう者はいない。
ましてや、後継者の教育となれば尚更だ。
母方の血を引くアルベルトは、三代にわたって一族に仕えてきた男だった。
その忠誠は、彼が振るう鋼と同じく、揺るぎない。
若き公爵の命を守るだけでなく、
戦いを教える責務も背負っていた。
その朝、ソフィアは断固とした声で命じた。
「弱い身体は、弱い精神を生む」
バルコニーから陽光に照らされる田園を見下ろしながら、
一切の反論を許さぬ声音だった。
アルベルトは、その命を己の流儀で受け取った。
ルシアンの私室に足を踏み入れた瞬間、
革の匂い、鎧の金属音、
そして“義務”という重みが、部屋を満たした。
「お前が倒れた理由は一つだ。鍛錬が足りない」
回りくどさはない。
反論を許さぬ視線。
「今日から、その身体を動かす。
引きずってでも訓練場に連れていく」
ルシアンは抗議しようとした。
だが、それは怠惰を弱さと履き違えた、か細い声だった。
「……まだ具合が悪い。別の日でも……」
アルベルトは近づいた。
権威そのもののように、壁のように立ちはだかる。
「“別の日”はない。
失われた時間は危険だ。
ここで無駄にする一瞬一瞬が、この世界で生き残る可能性を削る」
反論は無意味だと悟り、ルシアンは唾を飲み込んだ。
だがその内側で、何かが微かに弾ける。
この身体は借り物でも――
思考まで奪われたわけではない。
次の瞬間、彼は訓練場へと押し出されていた。
砂と石が混じる広い中庭。
低い城壁と見張り塔に囲まれ、
兵士たちが剣と魔法の訓練に励んでいる。
「若君ルシアン様に、敬礼!」
一斉に響く声。
城壁に反響し、彼の胸に重くのしかかる。
――ここは、画面の向こうではない。
彼は“若き公爵”として、見られている。
アルベルトが隣に立ち、
素早い手首の動きで剣を二振り拾い上げた。
「まだ分かっていないな、ルシアン。
立場に相応しい振る舞いを学べ。
今日は“訓練”を思い出させてやる」
剣が放られる。
反射的に掴んだが、その重さに身体がよろめいた。
「師匠……」
ルシアンは視線を落とす。
「……マナを、感じられない」
アルベルトは眉をひそめた。
「“できない”のか?
それとも、また訓練を避けるための言い訳か?」
周囲の空気が震えた。
彼の拳を赤いマナが包み込み、
火花とオゾンの匂いが立ち上る。
「――確かめてやる」
拳が飛んだ。
胸を打たれ、身体が宙を舞う。
腹部への追撃。
息が奪われ、地面を転がる。
数人の兵の、抑えきれない笑い声。
痛みは、現実だった。
数値でも、振動でもない。
肉を圧す衝撃。
口に広がる鉄の味。
耳鳴り。
(……これが、“本当に死ぬ”感覚か)
立ち上がろうとした、その時――
感じた。
体内で、何かが目覚める。
他者のマナに反応する、原始的なうねり。
痛みが、振動へと変わる。
虚無の底から、
冷たく、粘つくエネルギーが溢れ出した。
黒いマナ。
墨のように濃く、光を歪める。
皮膚から糸のように立ち昇り、
やがて波となって空間を揺らす。
――思い出す。
誰もがレベル1から始まる。
成長は、訓練と食事。
高位魔獣の肉、
マナを多く含む果実や薬草。
一般人は十五歳でレベル20~25。
貴族なら、40を超えることも珍しくない。
ルシアンは――十五歳で、レベル45。
そして、魔法親和。
それは訓練では得られない。
母から受け継がれる資質。
水、火、土、風、光、闇、氷、雷。
親和を持つ者は、
マナの消費を抑え、力を増幅できる。
だからこそ、
神に選ばれた英雄たちは特別だった。
レベルと親和の融合。
それは、クーリアの運命すら変える。
――そして今。
エルウィンは悟る。
生き残るには、
技術だけでは足りない。
適応しなければならない。
より深く、より危険なものへ。
「本気でやるか?」
アルベルトが一歩踏み出す。
その影が、彼を覆う。
ルシアンは、よろめきながら立ち上がった。
呼吸は乱れている。
だが――内側は、燃えていた。
身体の本能と、ゲームの知識が重なる。
身体強化。
速度、筋力。
詠唱すらなく、魔法が発動する。
闇の輝きが筋肉を包み、
足元の地面が軋む。
剣にも同じ力を纏わせる。
刃が、液体の影に染まった。
咆哮と共に、手を伸ばす。
黒き槍が七本。
円を描くように浮かび、
一斉にアルベルトへ放たれる。
老人は、笑った。
剣に炎を宿す。
低く唸る火焔。
槍が触れるたび、火花となって消える。
最後の一本が霧散した瞬間、
燃え盛る剣を掲げ、前進。
「――ようやく思い出したか!」
厳しさと誇りが混じる声。
「これで、訓練になる」
恐怖は、もうなかった。
心臓は激しく脈打ち、
力は――確かに、彼の中にあった。
だが直後、
焦ったルシアンは水魔法を即興で放つ。
蒸気が噴き上がるが、
マナは急速に枯渇した。
――親和のない魔法は、致命的な浪費。
戦場では、それは失敗ではない。
死だ。
「マナを無駄にして逃げる気か?」
アルベルトが唸る。
「それが一番、腹が立つ」
炎のオーラが蒸気を焼き払い、
次の一撃が彼を叩き伏せた。
止まらない。
倒し、起こし、また倒す。
「親和の魔法だけを使え。
それ以外は浪費だ。
浪費は――戦場で死ぬ」
バルコニーから、ソフィアは黙って見ていた。
拳を握り締め、
介入したい衝動と義務の間で揺れる。
サンダーが、不安げに嘶く。
「……これ以上殴ったら、アルベルト」
低く呟く。
「私の怒りを味わわせるわ」
それでも、止めなかった。
息子の中にある“火”は、
これまでとは違う。
衝動的な子供ではない。
説明できない何かが、そこにあった。
訓練は数時間に及んだ。
日が傾き、影が伸びる頃、
ルシアンは地面に倒れていた。
引き裂かれた服。
汗と砂、痣に覆われた身体。
すべてが痛む。
だが――限界を越えた、静かな満足があった。
アルベルトは腕を組み、黙って見下ろす。
彼の目は、
鍛錬に磨かれた冷たさの奥に、
隠しきれない感情を宿していた。
初めて歩いた日。
泣き声。
拙い笑顔。
――孫のような存在。
だからこそ、辛い。
だが、甘やかすわけにはいかない。
ルシアンは、
弱さを許されない血を引いている。
鍛えねば、死ぬ。
だから、表情を崩さなかった。
その時――
アデラが駆け込んできた。
白虎を伴い、
治癒薬と濃縮マナの瓶を手に。
膝をつき、震える手で差し出す。
「……今のレベルは?」
ルシアンが掠れた声で問う。
「前回の測定で、45です……」
彼は、静かに頷いた。
「……そうか。ありがとう」
その一言に、アデラは凍りついた。
“ありがとう”。
かつての彼なら、
命令か叱責しかなかった。
今、彼女の前にいる青年の目には、
理解があった。
尊重があった。
――生き残れば、
彼は、何者かになれる。
そんな予感だけが、
静かに胸に残った。




