「呼吸する山」
レストランを出て、エミリーとひとときの穏やかな時間を過ごした後も、ルシアンはまだ今日が何か驚きを用意していると感じていた。
遠くから、1Aクラスの予選トーナメントの熱気が伝わってくる。学生や観客の群れが学院の廊下を埋め、空気は決闘への期待で震えていた。
そして二人がアリーナの縁に近づくにつれて、期待感は増していく。空を横切る魔法の火花一つひとつが、これから待ち受ける試練の前触れのようだった。
「もうトーナメントは始まっているようだな」
ルシアンは、学生たちが急ぎ足でアリーナへ向かう様子を見ながらつぶやいた。
エミリーは興味深そうに彼の後をついていく。
彼の顔に浮かぶ、緊張と期待が混ざった微妙な表情に気づいたのだ。
「近くで見てみる?」
彼女は、場のエネルギーに魅了されながら尋ねる。
「うん、でも目立たないようにしよう」
ルシアンは低く答えた。
「今日は初戦の日だ。観察することは、どんな本よりも学びになる」
二人はちょうど、最初の試合が始まるプラットフォームに到着した。
ルシアンはもう怪我も回復しており、視線は戦う学生たちに集中していた。
オースティン師がカスパー・ボーランスとニルソン・スタンリーを呼ぶと、戦いは瞬く間に始まった。
カスパーはニルソンに隙を与えず、剣技と体力を駆使して防御を崩す。最後は正確な一撃で頭を打ち抜き、意識を失わせた。
ニルソンを回復エリアへ運んだ後、次の戦いはコーウィン・アーメットとクレイグ・デニスが対峙する。
炎と氷がぶつかり合い、魔法同士の衝突で蒸気が立ち込める。
最終的にコーウィンは、湿った地面を利用してクレイグのバランスを崩し、素早く正確な一撃でノックアウトする。観衆は唖然とした。
別の区域では、コンウィック・ブリッグスとダリリン・マカリスターが戦っていた。
大地と魔法がぶつかる激戦。計算された一歩一歩が勝敗を左右する。
ダリリンは攻撃をかわし、防御し、コンウィックを接近戦に誘い込む。弱点はほとんど見えないが、彼は執念で探す。
アリーナが戦闘の混沌で震える中、ルシアンは少し離れた場所から観察していた。
そしてオースティン師に近づき、緊張と期待の入り混じった表情で問う。
「今日、戦わなければならないのか?」
師は皮肉っぽく微笑む。
「次の予選に力を残しておく方がいいだろう。カラに骨を折られた言い訳を使いたいわけじゃないだろう?」
ルシアンはうなずく。
トーナメントは始まったばかり。各試合は戦闘だけでなく、戦略や精神統制の学びでもあるのだ。
トーナメントの緊張と激しい戦いの後、ルシアンはひと息つく必要を感じた。
翌日、ファルドモード学院の通常の授業が始まる。
その中でも、彼が「無駄だ」と考える授業があった。だが義務として受けなければならない。
芸術と文化の授業、上流階級における教養を育むためのものだ。
ルシアンは次の戦いに臨む方がまだ楽だと思いながら、仕方なく教室に向かう。
音楽棟を歩きながら、学生たちは楽器に没頭していた。
少しの好奇心と、少しの諦めを抱え、ルシアンはピアノに挑戦することにした。
指は鍵盤の上で震え、数回の試行の後に出た旋律は無残な結果に。
ギターも、バイオリンも…どれも手応えはなかった。
落胆していた時、ふと視線が角に置かれたフルートに止まった。
そのフルートは、別の人生、かつて音楽が心の避難所だった頃を思い起こさせる。
ルシアンはそっと、窓から差し込む柔らかい光の下に向かい、演奏を始める。
柔らかく、切ない旋律が空気を満たし、遠くの者たちの心さえも惹きつけた。
遠くで、イザベラは、カレブとレオナルドの些細な争いにうんざりしていた。
権力と虚栄の駆け引きは彼女を退屈させるだけだ。
その時、教室の片隅から柔らかく悲しげな音が届く。フルートの旋律、繊細で正確な指遣い。
イザベラは眉をひそめ、旋律の背後にある技術を認めた。
心の中で、演奏者の名前は知っていた。
過去の影響が彼女を戦慄させる。しかし、この音楽は無視できなかった。美しく、悲しく、どこか懐かしい。
彼女は柱の影に隠れ、距離を保ちながら聞き入る。
目立たぬようにしつつも、心は真実の音色に心奪われる。
ルシアンはイザベラの存在に気づかず、記憶の中に没頭し続ける。
静かな観客として彼女は見守るしかなかった。
やがて、音楽への魅力に導かれ、イザベラは数歩前に進む。
小さな声で、旋律に重ねるように尋ねる。
「素敵な曲ね。どこで習ったの?」
ルシアンは驚き、演奏を止め、彼女を見つめる。
慎重さと敬意が混ざった目を向けられた。
「遠い国で聞いた曲だ」
彼の声には神秘的な空気が漂う。
イザベラは目を輝かせる。
「その国はどこ?いつか行ってみたいな」
ルシアンは視線を落とし、哀愁を帯びた声で答える。
「残念ながら、行けそうにない。僕でさえ」
イザベラは少し落胆したが、音楽への情熱は消えなかった。
「その曲、私も習いたかった」
ルシアンは彼女の真剣な興味を認め、軽く微笑む。
「簡単だよ。望むならピアノで試してみな」
以前の演奏を見て、彼女が上手だと感じていた。
イザベラは慎重にピアノに近づき、ルシアンの旋律を追いかける。
指先は踊るように鍵盤を滑り、フルートの音を温かく生き生きした旋律に変える。
演奏後、そっと振り向き、落ち着いたまま尋ねる。
「他の曲も知ってる?」
「実は、知っている」
ルシアンは、予想もしなかった不思議な繋がりを感じながら答える。
その瞬間、レオナルドが現れ、優越感たっぷりに割り込む。
「本当に音楽が好きなら、イザベラ、一緒に王宮へ行こう。素晴らしい音楽家がいる」
イザベラは礼儀正しく、慎重に微笑む。
「誘ってくれてありがとう。でも、また別の機会に」
ルシアンはそろそろ退室しようとした。
だがイザベラは控えめに、しかし知りたい気持ちを抑えきれず尋ねる。
「ルシアン様、次はいつ美術の授業に戻りますか?」
「わからないな、時間がある時に」
ルシアンは彼女の興味の真剣さに少し驚く。
イザベラは小さく頭を傾け、希望を込めて言う。
「次に来たとき、別の曲も教えてくれますか?」
「もちろん」
ルシアンは思いがけず心が軽くなる。
「じゃあ次回だ」
イザベラは小さな微笑みを浮かべる。
「楽しみにしています」
ルシアンは遠ざかりながら、淡いが確かな絆の始まりを感じていた。
教室を出る途中、レオナルドが立ちはだかる。
「音楽が好きだなんて知らなかったな」
ルシアンは冷静さを保ち、感情を見せずに答える。
「どけ!」
レオナルドは王家の血筋を盾に動かず挑発する。
「僕を傷つけられると思うか?」
ルシアンは状況を計算し、ドラスティックに行動する。
「どけ、これが最後の警告だ!」
ルシアンはマナを拳に集中させ、正確に腹を打ち込む。
レオナルドは息を失い、倒れる。
止まることなく通路を進むと、黄色い目がレオナルドの顔に近づく。
黒い狼ウルバーが牙を見せ、かすかに触れるだけで威圧する。
ルシアンが教室を出ると、ウルバーは忠実に従い、彼の後を追う。
部屋で休んでいると、誰かが扉を叩いた。
使用人が告げる。
「ルシアン様、ディラン・ボーランス氏、ジュリアン・エルカン氏、リアム・ブリッグス氏が応接室でお待ちです」
ルシアンは顔を上げず応接室に向かう。
そこにはAクラスの懲罰委員会の面々がいた。
ディランは正式な口調で告げる。
「ルシアン様、私たちは懲罰委員会です。美術教室での事件により、学長が出席を求めています。ご同行ください」
ルシアンは軽くあざけるように答える。
「レオナルドの泣き言か?」
ジュリアンは真剣な顔で割り込む。
「違います、目撃者が多数います」
ルシアンは気だるそうにうなずく。
「なるほど、わかった」
一方、学長室ではマグナスとカラが議論していた。
カラは苛立ちながら叫ぶ。
「教えたことは何一つ役に立たない!また負けた!どうすれば急速に強くなれるの?」
マグナスは落ち着いて答える。
「近道を求めるな。訓練は一歩ずつだ。歩く前に走ろうとするな」
「でも無駄なことを教えている間にルシアンは強くなる!最後の戦いの屈辱、見なかったの?」
マグナスは状況を理解する。
「君は成長した。しかし、彼も同じだ。アルバートは戦うたびに進化する怪物を作った。反射神経、直感…戦えば戦うほど適応する。私も経験した。だが君なら乗り越えられる。焦るな」
カラは怒りに震え叫ぶ。
「クソ、ルシアン!大嫌い!」
立ち上がり、ルシアンを追うディランに出会う。
カラは彼を睨むが、ルシアンは目を向けず、学長室へ向かう。
ルシアンは席に座り、マグナスから飲み物を勧められる。
「勇気に感服する。本当に王子を殴ったのか?」
「道を阻むハエをどかしただけだ。何度も警告したが、聞く耳を持たなかった」
マグナスは考え込む。
「これは王家と両親に報告する必要がある。政治問題になるかもしれない」
ルシアンは微笑をこらえる。
「何も起きないと知っている。王家とダグラス家は共に陰謀を潰す手を打っている。さらに学院の方針は平等を推進するはずだ。見せかけのスローガンじゃないのか?」
マグナスは驚く。
「年齢の割に大人びているな。ローレンスはカレブを後継者にしようとして盲目だ」
「関係ない。呼んだ理由は?」
「怖がらせて態度を改めさせるつもりだったが、無駄だと分かった」
「そうか。なら退室する。あと、私に良い子でいろと言うなら、カラを近づけるな」
「約束はできない。あの子は手に負えないが、学院終了まで挑発は抑えるようにする」
「なんでそこまで執着する?」
「君に勝ったからだ。年下で、屈辱を与え、良い成敗をした。まだ理由を聞くのか?」
「アレハンドロとアンドリューも勝っただろ」
「彼らは残り少ないマナで生き残っただけだ。勝たせていたら、誰も文句は言わなかった。耐えるしかない」
「次は勝ちすぎて記憶から消えるぐらいにしてやる」
「まあいい。耐えて、問題を起こすな。去れ」
ルシアンは立ち去る途中、アクスル・トンプソンと遭遇。
顔には傲慢と決意が浮かぶ。
彼は退学の書類を誇らしげに持ち、マグナスへ報告する。
しかしルシアンは微動だにせず、堂々と歩き続ける。
アクスルは進もうとするが、マグナスの一喝で後退した。
「入って扉を閉めろ!」
諦めたアクスルが従い、ルシアンは何事もなく通り抜ける。
その影には、挑戦と静かな権威が宿っていた。




