『闇の捕食者』
すべての捕食者が、恐怖を知るわけではない。
レオンタリスもまた、例外だった。
昼間、彼らはルシアンの前で退いた。
だがそれは理解によるものではない。
本能が囁いたのだ。
――あれには関わるな。
だが彼らの中に「恐怖」という概念はない。
あるのはただ一つ。
――縄張り。
そしてルシアンは、その内側に踏み込んだ。
それだけで、理由は十分だった。
太陽が、閉じる瞳のように沈む頃――
三つの巡回隊。
計十六体の成体レオンタリスが、痕跡を追い始めた。
隠れる必要などない。
草は爪で裂け、
咆哮はねじれた木々の間を震わせる。
彼らはサバンナの王族。
原初の咆哮の継承者。
裂け目に潜む人間など、脅威ではない。
だが――
あの“退かせた人間”は別だ。
挑戦だった。
そして挑戦は、血で応えるものだ。
やがて先頭の隊が、裂け目に辿り着く。
急ぐ様子はない。
人間は遅い。
単純だ。
だが――
その夜、サバンナは“静かすぎた”。
蛙も、虫も、風さえもない。
ありえない静寂。
裂け目の中。
一人の老女が、目を開いた。
咆哮は聞こえない。
――それが、何よりも恐ろしかった。
「人間は眠っている」
タラクが鼻を鳴らす。
「岩を開けろ。夜明け前に片付ける」
副官が空気を嗅ぎ、瞬きをした。
「タラク……妙だ」
「妙だと?」
「……影が、汗をかいているような匂いだ」
レオンタリスたちは足を止めた。
聞こえるものではない。
聞こえない“何か”に対して。
夜は、こんな音をしない。
決して。
タラクはこれまで、
アルファハイエナ、幻影豹、紅牙熊を討ってきた。
呼吸するものに、退いたことはない。
だが――
“あれ”は呼吸していない。
ルシアンの闇は、振動も匂いも風も喰らう。
そこにあるのは――
反響のない闇。
「……見たか?」
一体が呟く。
「何をだ」
「目だ。草の中に」
タラクは笑いかけて――止まった。
再び現れたからだ。
遠くではない。
目の前に。
金貨ほどの大きさの、黄色い光。
二つ。
顔の高さに浮かんでいる。
だが――
顔がない。
皮膚も、肉体も。
ただ、影。
目だけが、存在している。
瞬き。
そして、消える。
次の瞬間には、別の位置に。
ありえない速度。
ありえない静寂。
蛍のように現れては消える。
だがそれは――
悪意を持った光だった。
低い位置。
高い位置。
木の上。
空中。
レオンタリスには理解できない。
だが本能は理解していた。
――危険。
――捕食者。
――未知の捕食者。
影が、背後に滑り込む。
一体が唸り、振り向こうとして――止まる。
喉に、圧力。
見えない指が食い込むように。
空気が歪む。
世界に裂け目が開いたかのような感覚。
瞳孔が開く。
何かが――
“虚無から噛みついている”。
そして。
触れてもいないのに、肉が裂けた。
音はない。
ただ、血が細く流れる。
現実を拒否するように。
「下がれッ――!」
叫びは完成しなかった。
囁き。
それだけで終わる。
影の刃が、喉を通り抜けたかのように。
完璧な切断。
無音。
血すら、音を立てない。
世界が、それを邪魔することを拒んでいるかのように。
身体が揺れ――崩れる。
タラクは後退した。
声が、灰のように崩れる。
「……何だ……今のは……!?」
「何も……聞こえなかった……!」
誰も、聞いていない。
なぜなら――
ダグラスは、狩りで音を立てない。
闇が震える。
まず一対。
二十歩先の地面に。
動かない目。
次に、右。
さらに背後。
歩いていない。
近づいていない。
ただ――
“そこにある”。
「……動きが……獣じゃない……」
震える声。
瞬き。
そして――
すべて消える。
一歩、後退。
心臓が叩きつける。
次の瞬間。
目は、顔の高さにあった。
無音。
足音もない。
まるで夜そのものが織り上げたかのように。
タラクの背筋に、氷が走る。
――狩りの舞が、始まった。
ダグラスの狩りは常にこうだ。
まず、目を見せる。
次に、それを奪う。
最後に――
すでに死んでいると理解させる。
匂いもない。
咆哮もない。
警告もない。
ただ、黄色い目。
一体が逃げ出す。
――囁き。
膝から下が消えた。
悲鳴すら出ない。
何が起きたのか理解できないまま、崩れる。
「魔法だ!」
タラクが吠える。
「術者がいる!陣形を――!」
だが。
形のない敵に、陣形など意味を持たない。
その時。
影の奥から、一つの影が現れた。
今度は“形”がある。
歩いている。
闇が煙のように従う。
ルシアン。
目が止まる。
それは彼のものだった。
ダグラスの血を持つ者だけが宿す、黄金の光。
ただの人間か?
――それとも。
ルシアンは歩く。
ゆっくりと。
無音で。
感情もなく。
タラクは一歩退いた。
たった一歩。
だがサバンナでは――
退いた捕食者は、すでに負けている。
「追っていた」
ルシアンが言う。
闇の囁きのような声。
「来ると分かっていた」
タラクの喉が鳴る。
「……お前は……何だ……?」
ルシアンはわずかに首を傾ける。
「昼は――問題だ」
一拍。
影が足元から広がる。
獣のように。
「だが夜は――」
静かに。
「お前たちの“答え”になる」
レオンタリスは理解した。
狩っているのではない。
狩られている。
人間にではない。
獲物にでもない。
このサバンナが知るはずのなかった存在に。
闇が閉じる。
目が進む。
そして――
巡回隊は消えた。
音もなく。
痕跡もなく。
悲鳴もなく。
ただ、静寂だけが残る。
遠くで、サバンナが震えた。
三百年ぶりに。
新たな捕食者が現れた。
――捕食者を狩る者が。
猿たちは理由もなく目を覚まし、
象は南へ歩き出す。
すべての捕食者が理解していた。
――何かが、狩りを始めた。




