『見つめるサバンナ』
レオンタリスは退いていた。
敬意からではない。
理屈で導いた恐怖でもない。
ただ――原始的な本能。
あの人間は獲物ではない。
競うべき存在でもない。
そう、彼らの内側で何かが叫んでいた。
だが、ルシアンは動かなかった。
なぜなら――
喉が裂けるほど走り続けたあの少女が、彼の前で膝をついたからだ。
震えている。
汗に貼りついた赤い土。
息は乱れ、恐怖に引き裂かれた糸のように途切れていた。
最初に動いたのはエリザベスだった。
ゆっくりとしゃがみ込み、守るように距離を詰める。
「大丈夫」
低く、穏やかな声。
「もう終わった」
少女は顔を上げた。
エリザベスを見て――
そしてルシアンを見て。
その表情が、崩れる。
信じられないものを見る目と、消えない恐怖の間で。
「あなたたち……ここじゃない……」
囁くような声。
その考え自体が危険だと言わんばかりに。
「レオンタリスは……退かない。誰も……退かせられない」
エミリーが手を差し出す。
だが少女は弾かれたように後ずさった。
触れられること=痛み。
そう学んでしまった動きだった。
アデラがそっと隣に膝をつく。
嵐すら鎮めるような、柔らかな気配。
「もう誰も傷つけない」
「二度と」
少女は瞬きをした。
瞳に水が浮かぶ。
「わたし……洞窟の採集係で……」
「ラミヒャに見つかって……」
「それで……遊ばれて……」
声が途切れる。
そしてルシアンを見る。
今度の震えは――恐怖ではない。
理解できないものを前にした、純粋な混乱。
「あなた……何なの……?」
ルシアンは答えない。
代わりに、カーラが肩をすくめる。
「長い説明は、水と寝床があってからにしなさい」
「隠れる場所もね」
岩の上からデイアナが言う。
視線は地平線から外さない。
「この場所、もう私たちを囲んでる」
だが少女は激しく首を振った。
「だめ!ここにいちゃだめ!」
「ラミヒャは戻ってくる……わたしが戻らなかったら……」
「足跡を見つけられたら……」
胸を押さえる。
震えが止まらない。
「北の遺跡はドラカリが見張ってる」
「サバンナはレオンタリス」
「夕方にはザルコスが横切る……」
「今動かなきゃ……隠れなきゃ……」
ルシアンを見上げる。
「みんな……殺される」
エリザベスが冷たい笑みを浮かべた。
「やれるなら、ね」
少女は呆然と見つめる。
それは傲慢じゃない。
無知でもない。
虚勢でもない。
ただ――
“死ぬ”という結果を、前提にしていない者の声。
イザベラが一歩前へ出る。指先に炎。
「この土地に誰がいるか教えなさい」
「情報が必要よ」
少女――アレンはためらった。
呼吸が速くなる。
「もし話したら……ラミヒャに知られたら……」
「部族が……殺される……」
ルシアンが彼女を見る。
金の瞳がわずかに揺らめいた。
「一人で残れば」
静かに言う。
「もう死んでいるのと同じだ」
少女は固まった。
脅しではない。
ただの――事実。
このサバンナで、彼女は一夜も生き延びられない。
エリザベスが手を差し出す。
強く。だが、押しつけない。
「来なさい」
少女は迷う。
その手を見る。
ルシアンを見る。
そして――
ゆっくりと。
手を取った。
「……アレン、っていいます」
震える声。
「隠れられる場所……知ってる」
「太陽も……ラミヒャも……全部、避けられる場所」
カーラが耳を傾ける。
「どこ?」
アレンは東を指さした。
サバンナが湾曲し、光を吸い込むような森へと続く方向。
「影の森の境界……」
小さく囁く。
「亜人は……あそこに入らない」
イザベラが眉を上げた。
「いかにもエルフの厄介事って感じね」
アレンは震えた。
「うん……でも……」
「ここで獲物として死ぬよりは……まし」
ルシアンは頷いた。
「なら、森へ行く」
アデラが息を吐く。
「ダークエルフは歓迎しない」
ルシアンは歩き出す。
紫のマナが生き物のように揺らめく。
「こちらも同じだ」
アレンは唾を飲み込み――それでも歩いた。
こうして。
影のような少女に導かれ、一行は大陸の奥へと進んでいく。
この大陸では――
すべての獲物に牙があり、
すべての捕食者に領域があり、
すべての影が――見ている。
背後で、サバンナが震えた。
影の森が、古い口のように開く。
そして――
闇の奥で、何かがすでに気づいていた。
半神の到来に。
砕けた神性の匂いを、忘れていない存在。
それは――
待っている。




