『人間の獲物』
その匂いは、拳のように彼らを打った。
ただの土ではない。
乾いた血が粉塵に混ざり、酸のような樹液が根を溶かし、そして――
顎を閉じようとする直前のように脈打つ、あまりにも古いマナ。
ルシアンは、まるで開いた傷口をくぐるかのようにポータルから現れた。
背後で紫の光が、ぬめるような音と共に閉じる。
残されたのは――
人のものではない沈黙だった。
眼前に広がるのは、ザルハマ大陸。
それはまるで、眠る捕食者。
錆びた赤の平原。
爪のように歪んだ木々。
砕けた骨のような山脈。
そして、病的な熱で脈動する黄金の空。
文明など、どこにもない。
ここでは――
魔力が呼吸し、唸り、欲している。
世界そのものが、彼らを嗅いでいた。
エリザベスが大剣に手をかける。筋肉が張り詰める。
「ここ……」
彼女は低く呟いた。
「領域じゃない。――口だ」
エミリーは唾を飲み込む。空気の中を何かが這っている気がした。
「見られてる……この世界に。全部……測られてる」
カーラの全身の毛が逆立つ。尾が不吉な光を反射した。
「お腹を空かせてる」
彼女は囁く。
「生きてるものを……食べたくて」
イザベラは苛立ったように地面へ唾を吐いた。
「最高ね。食欲のある大陸とか。笑えるわ」
アデラは本能的にルシアンへ寄り添う。
「気を抜かないで。この場所……巨大な獣みたいに呼吸してる」
デイアナは割れた岩の上に立ち、焼けた空を背に周囲を見渡した。
「村はない。道もない。あるのは……巨大な生き物の痕跡だけ。それも新しい」
ルシアンは感じていた。
大陸のマナが、自分のそれを押してくる。
まるで捕食者同士が、どちらが先に退くかを測るように。
この地は彼を認識しない。
受け入れない。
――挑んでいる。
その時だった。
空気を裂く音。
人の叫び。
鋭く、絶望的で、死にかけた声。
「いや……!やめて!誰か――!」
全員が振り向いた。
赤い草をかき分け、一人の少女が走っていた。
痩せ細り、傷だらけで、走るたびに血を撒き散らしている。
その瞳には、純粋な恐怖。
そして、その背後――
三つの巨大な影。
レオンタリス。
全長二メートル半を超える獣人。
鋼線のように張り詰めた筋肉。
琥珀色の瞳には、一片の情もない。
喉の奥で鳴る笑いは、退屈そうだった。
彼らは狩っていない。
――遊んでいる。
エリザベスが歯を食いしばる。
「叩き斬る……」
エミリーは杖を構えた。怒りで手が震えている。
「助けなきゃ……!」
だが――
ルシアンは、すでに動いていた。
歩く。
走らない。
迷わない。
レオンタリスたちは足を止める。
匂いを嗅ぎ――
眉をひそめた。
少女が叫ぶ。
「来ないで!殺される!お願い、逃げて――!」
それでもルシアンは進む。
静かに。確実に。
狩ることを決めた影のように。
レオンタリスが笑った。
「新しい人間か」
「妙な匂いだな……一人にしては強すぎる」
エリザベスはすでに剣を半ば抜いている。
カーラは牙を剥き、
イザベラの手には炎が宿り、
アデラは少女を庇い、
デイアナは三体同時に狙いを定めていた。
リーダー格が一歩前へ出る。低い唸り。
「妙な人間……自分の獲物を取りに来たのか?」
ルシアンが口を開く。
空気が張り詰めた。
「――離せ」
レオンタリスたちは爆笑した。
「命令だと?人間が?」
「この地ではな――弱い奴は跪くか、死ぬかだ」
ルシアンが手を上げる。
その瞬間――
大陸が、応えた。
草が震え、
地が軋み、
風が打たれた獣のように退いた。
エミリーの骨が軋む。
カーラが喉を詰まらせる。
イザベラが歯を食いしばる。
デイアナがよろめき、
アデラは足を踏み込んで耐えた。
リーダーが一歩、下がる。
もう一歩。
本能が叫んでいた。
――逃げろ。
「な……何だ、お前は……?」
掠れた声。
ルシアンは、感情のない声で答える。
「神が恐れるものだ」
少女が息を吸うことすら忘れたように硬直する。
リーダーが唸る。
「この土地は……お前を拒んでいる」
ルシアンは一歩進む。
「好都合だ」
わずかな間。
「許しを求めに来たわけじゃない」
少女たちが動く。
完全に統率された群れのように、彼の後ろへ。
エリザベスは獰猛に笑い、
カーラは興奮を含んだ笑みを浮かべ、
イザベラは怒りに燃え、
エミリーは張り詰めた魔力を纏い、
アデラは壁となり、
デイアナは心臓を狙い続ける。
レオンタリスは退いた。
敬意でもない。
武器への恐怖でもない。
ただ――
血の奥底。種としての記憶。原始の本能が理解していた。
これに抗えば、死ぬ。
骨すら歌われない死を迎える。
こうして、旅は始まった。
人を喰らう大陸が――
喰らえぬものと出会った。
理解できないもの。
測れないもの。
獲物にも、捕食者にも分類できない存在。
――神よりも、なお悪しきもの。




