魔の予兆
街へと続く道は、狭かった。
乾いた丘と、風にねじ曲げられた木々に挟まれ、逃げ場はない。
馬車が進むたび、砂埃が舞い上がる。
黄色く濁った靄のように漂い――城壁が見えるよりも先に、その到来を告げていた。
知らせは、すでに届いている。
いつも、そうだ。
誰よりも早く。
石橋を渡ったとき――
鐘は鳴った。
来訪を祝うためではない。
まるで、葬儀を告げるように。
門は、開かれていた。
だが――
出迎える者はいない。
広場は、人で満ちていた。
それなのに――空っぽだった。
人々は見ている。
バルコニーから。
半開きの窓の奥から。
わずかに揺れるカーテンの影から。
司祭たちは、小さく祈りを呟き――
ある者は、ただ頭を垂れていた。
ひとりの子供が、指を差す。
「ねえ、ママ……あれ……」
その言葉は、最後まで続かなかった。
母親は乱暴に腕を引き、家の中へ引きずり込む。
そして、戸を強く閉めた。
馬車が、止まる。
静寂が降りた。
軍勢よりも、重い沈黙。
ゆっくりと、扉が開く。
最初に降りたのは――ルシアン。
風が彼の黒い外套をわずかに揺らし、武器の柄が覗く。
鎧はない。
もう、必要ない。
黄金の瞳が街をなぞる。
危険なほど静かな視線で――
滞在を決めるより先に、逃走経路を測っていた。
その瞬間。
空気が、変わる。
石畳の隙間を這うように、微かな黒の魔力。
理由もなく、影が揺れた。
ルシアンは、小さく息を吐いた。
「……悪くない」
感情のない声だった。
エリザベスが、その後に続く。
優雅に。堂々と。
迷信に満ちた視線など、気にも留めない。
その姿は、誇り高く――
どこか挑発的ですらあった。
最後に降りたのは、エミリー。
かつての聖女。
呪われた存在。
頭巾で顔を隠していても――
その存在だけで、空気が重く沈む。
何人かの信徒が、後ずさった。
ひとりは、ロザリオを取り落とす。
商人が、露骨に店を閉めた。
やがて、一人の兵士が前に出る。
勇気ではない。義務に押し出されただけの足取り。
儀礼用の槍を握る手は、震えていた。
「こ、この街は……」
喉が鳴る。
「……平和な旅人を、歓迎する」
ルシアンは、何も言わずに見つめた。
それだけで――
兵士の背を、汗が伝う。
やがて、口を開く。
「休むだけだ」
短く。
「こちらに手を出さなければ――こちらも何もしない」
広場の誰一人として、信じなかった。
ざわめきが広がる。
――来た。
悪魔が。
エリザベスが、口元を歪める。
「すぐに伝わるわ」
囁き。
「司祭、貴族、英雄……誰かが、あなたの首を取りに来る」
「分かっている」
「なら、なぜここに?」
ルシアンは視線を遠くへ向けた。
街の先――山脈の彼方へ。
その瞳が、ほんの一瞬だけ、深く沈む。
「――場所を、知らせる必要がある」
エリザベスは、すぐに理解した。
エミリーも。
世界の恐怖には、顔が必要だ。
そして今――
それは与えられた。
ルシアン自身の手で。
カラスが鳴く。
役所の屋根の上から。
風もないのに、枯葉が落ちた。
まるで世界が、息を止めたかのように。
遠く離れたどこかで。
本来、同じ祈りを持たぬはずの神々が――
同時に、それを感じた。
存在。
脅威。
生きた異端。
祈りの向きが、変わる。
そして、数百年ぶりに。
神々は知る。
恐怖に似た、何かを。
ルシアンは歩き出す。
何事もなかったかのように、宿へ向かって。
だが、その一歩一歩は――
戦の宣告だった。
そして、彼の足元の砂は。
わずかに、黒く光っていた。
人間には、理解できない輝きで。




