「公国最後の日」
夜明けは、光をもたらさなかった。
そこにあったのは、廃墟の上を病んだ海のようにうねる、濃密なマナの霧だけだった。
かつてダグラス公国の心臓部だった場所は――
もはや、人が生きられる土地ではなかった。
近隣の山々は、不可能な角度で砕け散り、まるで神の手が叩き潰したかのようだった。
ねじれた樹々はマナを呼吸し、
岩は死んだ心臓のように脈打ち、
そして――空気は。
空気そのものが、肌を焼くほど魔力に満ちていた。
誰も、ここでは生きられない。
今日も。
明日も。
――おそらく、永遠に。
ルシアンは沈黙のまま、それを見つめていた。
その顔に、初めて力はなかった。
そこにあったのは――疲労だけだった。
瓦礫に覆われた道を、アルベルトが近づいてくる。
「閣下」
重々しい声で告げる。
「すべて手配は完了しました。キャラバンは正午前に出発します」
彼の背後では、数千の兵士と民が集まり、残されたわずかな荷を背負っていた。
引き裂かれながらも、前へ進むことを選んだ、人の海。
一人の将軍が前に出た。
「ダグラス公……我らをお連れください。
あなたが行くなら、我らも共に」
ルシアンは視線を落とす。
将軍は、理解していない。
――あるいは、理解しているのか。
胸に、裂け目のような思考が走る。
(なぜ……憎まれない?
この地を滅ぼしたのは、俺なのに)
アルベルトは、ルシアンにだけ許された容赦のない誠実さで、彼を見据えた。
「閣下。お考えは分かります。ですが、聞いてください」
彼は廃墟を指し示す。
砕けた空、ひび割れた大地、地表を走るマナの奔流。
「公国は土地にあるのではありません。城壁でもない。
あなたに仕えるために存在する。それが――今までも、これからも、我らの理由です」
ルシアンは目を閉じた。
内に宿る神性の重みを感じる。
そして、消せぬ火が胸に灯っているのを。
深く、息を吐いた。
「……分かった」
低く告げる。
「新たな地を探せ。マナが耐えられる場所を。獣に追われない土地を。
アルベルト……皆を導け」
「はっ、閣下」
将軍が食い下がる。
「では……あなたは?
共に来てくださるのですか?」
ルシアンは、ゆっくりと首を横に振った。
神々の戦いで砕かれた空を見据える。
「神々は、俺という存在を受け入れない」
冷徹なほど正直に言った。
「英雄を送り、怪物を放ち、あらゆる手を使うだろう。
……半百万の命を、俺のそばにいるだけで危険に晒すわけにはいかない」
一歩、後ろへ。
マナの風が、地に拒まれるかのように彼の外套を揺らした。
「一人で動く。それが、皆を生かす唯一の道だ。
お前たちが新たな故郷を築く間……俺は、地図から消える」
アルベルトは喉を鳴らし、痛みを飲み込む。
「安全な地を見つけ、壁を築いたら……
戻ってきてくださいますよね?」
ルシアンは、まっすぐに彼を見た。
「ああ。
皆が安全になったら。
神々が、お前たちを使って俺に辿り着けなくなったら……必ず戻る」
アルベルトは頭を下げた。
それが、数か月か、数年になるか分からない別れだと知りながら。
太鼓が鳴る。
キャラバンが動き出す。
一つの公国が、後世に語り継がれる大移動を始めた。
死んだ大地に一人残されたルシアンは、彼らを見送った。
最後のダグラスの旗がマナの霧に消えるまで、彼は表情を変えなかった。
そして――その後。
「来るがいい、神々よ……」
低く呟く。
「今回は、ここで待ちはしない」
風が吠え、歪んだ光と塵が足元を舞う。
ルシアンは、砕けた地平へ歩き出そうと――
その時、背後に足音がした。
兵士ではない。
アルベルトでもない。
神の使徒でもない。
――彼女たちだった。
エリザベスが、腰を揺らしながら前に出る。
選んだ男から視線を逸らさずに。
「一人で死にに行くと思った?」
疲れたが揺るがぬ笑みで言う。
「それなら……私のこと、まだ分かってないわね」
続いてエミリーが現れ、深く息を吸う。
その瞳は、決して折れない。
「言ったでしょう……」
囁く。
「どこへ行くとしても……私は、あなたと一緒」
カラは、残留エネルギーを抑えるため包帯で覆われた大剣を背負って現れた。
「それにさ」
皮肉げに笑う。
「バカな英雄ムーブした時、誰が助けるの?
どうせするでしょ。いつもみたいに」
イザベラは胸を張り、燃えるような赤い瞳で睨む。
「私を捨てる気?」
罪悪感と挑戦が入り混じった声。
「ずっと守るって言ったでしょ。
それとも……私を抱くためだけの言葉だった?」
一歩、踏み出す。
「私の道は、あなたと繋がってる。
最後までよ、ルシアン」
アデラは静かに進み、白虎を伴っていた。
凍てつく気配を放ちながらも、その存在は温かかった。
「私たちは重荷じゃない」
彼の腕に触れ、囁く。
「あなたの力。
そして……あなたは、私たちの力」
最後に現れたのはダヤナ。
砕けた岩から飛び降り、挑発的に微笑む。
ルシアンの首元を見つめ、唇を舐め、牙を覗かせた。
「帰る場所なんてないの」
低く言う。
「それに……手伝ったら、少しくらいくれるでしょ?」
笑う。
「従うわ。だから……少しだけ、あなたをちょうだい」
ルシアンは、彼女たちを見つめた。
戦争を生き延びた、六人の女。
「これから来るものを、理解していない……」
ようやく口を開く。
「許せな――」
エリザベスが、一歩で距離を詰めた。
「私たちの人生を、あなたが決める権利はない」
エミリーは涙を堪え、
カラは楽しげに笑い、
イザベラは燃え、
アデラは静かに微笑み、
ダヤナは、懇願するか噛みつくかの瀬戸際だった。
ルシアンは目を閉じる。
守れない。
止められない。
そして、心の奥で分かっていた。
彼女たちは――最後に残った、人間性そのものだ。
目を開く。
運命を受け入れる。
彼女たちの運命も。
「……なら」
静かに言った。
「共に行こう」
マナの風が再び吹き、紫の光が渦を巻く。
ルシアンが進む。
左にエリザベス。
右にエミリー。
岩を跳ぶカラ。
炎の歩みのイザベラ。
後衛の守護者アデラ。
嵐に挑むダヤナ。
七つの影。
一つの意志。
世界は、一つの公国を失った。
神々は、一人の敵を得た。
そして大陸は、やがて知ることになる。
――半神が、仲間と共に歩む時。
天でさえ、彼を閉じ込めることはできない。
作者あとがき ― 第1巻 完
ここまで読んでくださった皆さん、本当にありがとうございます。
この物語を読み、戦争や喪失、そして逃れられない選択の中をルシアンと共に歩んでくださったことに、心から感謝します。本巻はひとつの区切りではありますが……これは、より広く、より過酷な世界の始まりにすぎません。
物語は、これからも続きます。
これより先、ルシアンの運命は大きく変わります。
神々に許されぬ存在となった彼は、神の選民たちに執拗に追われることになるでしょう。
もはや彼の道は支配者のものではありません。
生き延びるために逃げ続ける――
世界が彼の名を恐れるようになる、その時まで。
次の巻では、新たな大陸、新たな文化、そして未知の文明が描かれます。
帝国の興隆、種族間の衝突、そして理解しきれない力に満ちた世界の中で、人類が覇権を握ろうとする姿を追っていきます。
旅は、まだ始まったばかりです。
この冒険に付き合ってくださり、ありがとうございました。
また次の巻でお会いしましょう。




