『天空の堕落』
空を震わせていた轟音が、唐突に消えた。
二つの神威は衝突を止め、
残酷な静寂が世界へと降りた。
雲は砕け散ったガラスのように裂け、
巨大な山々が宙に浮かんでいる。
神力の残響に支えられた、あり得ない光景。
ヴェリリオンから溢れていたマナは、
風に攫われる煙のように消えていった。
英雄たち――アレハンドロ、シオマラ、ドラゴ、レオナルド――は、
何が起きたのか理解する暇すらなかった。
そして――
森が、変わった。
木々が呼吸するように彼らへとねじれ、
足元では根が蠢く。
重力が震え、空気が軋み――
世界そのものが、誰かに書き換えられているかのように歪んだ。
その混沌の中から現れたのは、
ダヤナ・ディアンジェロ・ロッセッティ。
砕けた天光に照らされた蒼白な肌。
だが――彼女は一人ではなかった。
背後では、倒れた戦士たちの死体が立ち上がる。
暗黒のマナの糸に操られ、
深紅の血管のように脈打ちながら。
……しかし、それだけではなかった。
森に属さない影。
あり得ない、二重のマナ。
空間そのものの残響。
ダヤナは口にしない。
英雄たちも気づかない。
――だが、彼女は理解していた。
隠された味方。
空間を司る英雄。
現実を渡り歩く旅人。
彼は密かに彼女の周囲の重力場を操作し、
疲弊した肉体を安定させ、
防御のわずかな綻びを補っていた。
個人的な恩。
そして――ルシアンへの借り。
ダヤナはわずかに微笑んだ。
凡人なら見逃すほどの、かすかな笑み。
その不可視の支えがなければ、
三人の英雄を同時に相手取るなど――
自殺行為だった。
ダヤナは手を掲げる。
死体たちは一瞬で静止した。
張り詰め、命令を待つ。
「あなたたちの神は死んだわ」
冷たい微笑。
「それでも救いを待ち続けるの?」
アレハンドロが一歩下がる。
ドラゴは武器の柄を握り締めた。
シオマラは重心を落とす。
レオナルドは盾を構える。
「……一人で戦う気はない、ってことよね?」
シオマラが低く唸る。
ダヤナは喉の奥で笑った。
人間とは思えない、愉悦の音。
「ええ。無駄でしょう?」
ゆっくりと指を閉じる。
操り人形たちの関節が一斉に軋む。
枯れ枝のような音。
血を流し続ける者。
黒いマナを滴らせる者。
「あなたたちは神を失った」
ダヤナは歩み出す。
「私は……新しい兵を手に入れただけ。」
森が唸り声を上げ、彼女の背後で閉じた。
最初に動いたのはドラゴだった。
竜の力を宿した突撃。
だがダヤナは退かない。
「ドラゴ……あなた、本当は私のものになるべきだったのに」
囁き。
彼女の指が爪のように伸びる。
――一閃。
完璧な外科的斬撃。
頸動脈。
そして、第四と第五神経の間。
生命マナが溢れる急所。
血流が、一瞬止まった。
時間が傷口の周囲だけ凍り付いたかのように。
ドラゴは膝をついた。
だが――死なない。
それは殺すための傷ではなかった。
空にするための傷。
魂をこじ開けるための裂け目。
空間の英雄が密かに重力を操作する。
ドラゴが即死しないように。
ダヤナには――
強い器が必要だった。
優雅な所作で、
彼女は傷口へ手を差し込み、
深紅の本質を一本引き抜く。
ドラゴが絶叫した。
そして倒れ――
再び立ち上がる。
「ドラゴ!!」
シオマラが叫ぶ。
レオナルドが舌打ちする。
「奴のやり口だ……分断して、孤立させ、喰らう」
アレハンドロは剣を構え直す。
「いや……俺たちで遊んでる」
森の歪みが霧のように薄れていく。
蠢く根も、囁く影も、脈打つ大地も、
神威衝突の余波と共に静まった。
残された沈黙は――
不自然だった。
その時。
森の上空から、一つの体が落ちてきた。
儀式のような静けさで。
――ドラゴ人形が、生まれた。
空虚。
強靭。
従順。
鎧は砕け、盾は粉砕され、
胸は内側から潰されたように陥没している。
呼吸はかろうじて続いていた。
シオマラが駆け寄る。
「ドラゴ!!」
だが彼の瞳は濁り、
生命の光はない。
赤い霧の中からダヤナが再び現れる。
指先の血が蒸発していく。
「本来、生きているはずがないのに……」
独り言のように囁く。
「誰が迎えに来るか、見てみたかったの」
ドラゴの身体が独りで起き上がる。
関節が軋み、
指があり得ない角度へ折れ曲がる。
ダヤナの声が空気を裂いた。
「安心して。優しく傷つけただけ。」
彼女の影がドラゴの影に溶け込む。
「少しだけ立たせておくわ……私の役に立つ間だけ。」
血に染まった操り人形は剣を掲げ、
仲間へ突進した。
アレハンドロの背筋に氷が走る。
「……何をした?」
ダヤナは首を傾げる。
「痛いところに触っただけ。」
記憶が閃く。
深紅の閃光。
空気を裂く血の糸。
ドラゴは反応すらできなかった。
胸を裂かれながら――
致命傷だけは避けられていた。
「ほんの挨拶よ」
アレハンドロは見逃していた事実に気づく。
直後に首へ差し込まれた、二本の指。
それは攻撃ではない。
侵略だった。
吸血のマナが体内を蠢く。
神経を麻痺させ、
意思を奪う。
立たせるために。
武器にするために。
ドラゴは再び歩き出す。
ダヤナの影を引きずりながら。
その歩みはよろめきながらも、
一歩ごとに大地を打つ。
鎧から滴る血が細い糸となり、
ダヤナの意思に応える。
操り人形――
そして兵器。
「ドラゴ……戻って……」
シオマラの声が震える。
返ってきたのは――斬撃。
剣が狂気の勢いで振り下ろされる。
アレハンドロが防ぐが、衝撃で吹き飛ばされ、
歪んだ木へ叩きつけられた。
レオナルドが叫ぶ。
「強く攻撃するな! まだ生きてる!」
「関係ないわ」
ダヤナの声が背後から響く。
弱々しく、裂けた息。
「もう……帰る境界は越えているもの」
彼女の身体は震えていた。
ドラゴ級の英雄を操るには、
彼女ほどの血統の吸血鬼でも
膨大すぎるマナを要した。
影が鼓動と共に明滅する。
彼女が崩れるほど、
ドラゴは狂暴になっていく。
最後の人間性すら失いながら。
シオマラが拘束結界を放つ。
光の檻。
ドラゴは一撃で両断した。
アレハンドロが背後から抑え込もうとする。
だがドラゴは異常な力で振り払い、
地面へ叩きつける。
レオナルドが槍を構える。
「ドラゴ……すまない!!」
人形英雄は斬撃で応えた。
別の戦士なら両断されていた一撃。
レオナルドは半分だけ逸らすが、
肩が裂けた。
ドラゴは痛みを感じない。
止まらない。
聞かない。
ただ前進する。
――殺せ。
――殺せ。
――殺せ。
ダヤナが膝をついた。
足元の地面に、枯れた根のような亀裂が走る。
「……もう……限界……」
支配が乱れ始める。
影が剥がれかける。
輪郭が煙のように揺れる。
アレハンドロが理解した。
「……今しかない!!」
シオマラが首を振る。
涙が溢れる。
「ダメ!! ドラゴよ!! まだいる!!」
だがドラゴは剣を振り上げる。
死が鋼の光となって迫る。
レオナルドが絶叫。
「シオマラ、伏せろ!!」
彼女は土壇場でしゃがんだ。
そして――
アレハンドロが最後の力で
背後からドラゴの胸を貫いた。
刃が前へ突き抜ける。
ドラゴの体が激しく痙攣した。
唇から漏れた音。
言葉ではない。
――かすかな吐息。
支配していた影が、煤のように散った。
吸血マナが宙に取り残される。
契約が砕けた瞬間、
ダヤナは悲鳴を上げた。
魂を半分引き裂かれたような叫び。
空中の血が一斉に落ちる。
紅の霧が消える。
彼女の体が揺らぐ。
「……まだ……終わってない……」
怨嗟を滲ませて囁く。
そして――
黒い霧となり、
木々の間へ溶けるように消えた。
マナは完全に枯渇していた。
あと数秒でも戦えば――
死んでいた。
戦士の身体は、静かに崩れ落ちた。
シオマラが膝をつく。
「ドラゴ……お願い……」
もう、届かない。
レオナルドは俯き、
アレハンドロは拳を握り締めた。
神戦で荒れ果てた森さえ、
彼のために沈黙していた。
一人の英雄が死んだ。
――そして、真の元凶は逃げた。




