『第一都市の陥落』
第一都市は、陥落した。
泥は死体と折れた軍旗、そして敗北の匂いを含んだ熱い煙で描かれた地図のようだった。
ルシアンは低く、しかし揺るぎない声で撤退命令を下した。そこにはもはや勝利はなく、救える命だけが残っていた。部隊は規律を保とうと陣形を組むが、闇が弱さを嗅ぎ取るたび、霧の奥から誰かの叫びが消えていった。
撤退の先頭に、アデラが立ちはだかった。
白虎から降り、泥にブーツを踏み込む。その一挙手一投足は計算され、正確で、致命的だった。彼女の周囲では、魔獣騎兵たちが即座に応じる。パンサー、ベア、グリフォンが咆哮とともに突進し、ダグラス軍の退路を切り拓いていく。
グリフォンに跨ったマークは、すべてを失った者の怒りをそのまま力に変え、反撃を指揮した。部隊は楔形で突入する。パンサーは影を裂き、ベアは陣列を粉砕した。
ほんの一瞬――
撤退は成功するかに見えた。
だが、ダグラス公国の闇は裏切りだった。
都市を覆う広域結界が、地形そのものを罠へと変えた。突然の濁流、水の壁、視界は囁きほどにまで削がれる。魔法が座標を断ち、道を歪め、戦術は瞬く間に混乱へと変わった。
アデラの声が、煙と恐怖を切り裂く。
「密集陣形! 側面退路を守れ!」
騎兵たちは連鎖するように応じる。牙と爪の移動する壁。
白虎は外科的な精度で突進し、ベアは包囲を破り、パンサーは側面を狙う影を引き裂いた。
――そして、致命打が来た。
神の大鎌のように鋭い氷の一閃が空を貫く。偶然ではない。完全な計算だった。
凍てつく光線が飛行線を切り裂き、筋肉と関節を一瞬で封じる。
マークのグリフォンは墜落した。
右の翼はほとんど反応せず、それでも雲の中で最後の力を振り絞り、エレノールとノルマを後方へ逃がした。血に染まった羽根を散らしながら、姿は霧の向こうへ消えた。
マークには、運がなかった。
彼の魔獣は砕け散り、呼吸は壊れた笛のように漏れていた。
凍った泥の上を歩く足音に、彼は顔を上げた。
アデラが近づいてくる。徒歩で、白い蒸気に包まれて。
傍らには白虎。血に濡れた毛並み、吐息のたびに冷気が水を蒸発させる。その光景は、ほとんど儀式のようだった。
泥に沈むブーツ。
死刑宣告を確信した処刑人だけが持つ、あの静かな歩み。
最初の咆哮の瞬間から、ずっと彼を追っていたかのような視線。
マークは槍を持ち上げようとしたが、筋肉を蝕む冷気がそれを許さない。
「なぜだ……」
血を吐きながら呟く。
「なぜ神に選ばれた者を狙う……?」
アデラは首を傾げた。感情はない。
「神が選んだ?」
母親のように穏やかな声で言う。
「ただの道具にしか見えないけど。」
白虎が唸り、瀕死の男の骨を震わせた。
アデラは少し屈み、彼を見定める。
「パンサーは良かった。ベアもね。あのグリフォンも……見事だった。
でも――」
金色の瞳が細まる。
「今日は、私に出会うべきじゃなかった。」
マークは必死に体を起こした。槍は震えていたが、まだ構えている。
「……膝は……つかない……」
アデラは、哀しくも残酷な笑みを浮かべた。
「安心して。騎兵は膝をついて死なない。」
指を鳴らす。
白虎は、理解を超えた速さで動いた。
閃光。
斜めの爪撃。
胸を切り裂く、氷の一撃。
マークは仰向けに倒れた。
冷気が内側から噛みつき、息も世界も奪っていく。
白虎が爪の血を舐める中、アデラは膝をついた。
「完全撤退。」
視線を逸らさず命じる。
「これ以上、死なせるな。」
騎兵たちは応じた。背後で都市が煙と瓦礫へ崩れていく。
アデラは、倒れた英雄を振り返らなかった。
ダグラス公国、第一都市は陥落した。
数時間後。
崩れた城壁から遠く離れた森の中で、別の英雄たちが再編を試みていた。
知らなかった。
狩人が、すでに彼らを追っていることを。
風が重い。
吹くのではなく、押し潰すようだった。
まるで森そのものが、来たるべきものに息を殺しているかのように。
カルロ・ベヌッチは、虚ろな足取りで歩いていた。
守護神は戦場で死に、彼を支えていた神との繋がりは古い糸のように断ち切られた。
予知の力も、誇りも、存在意義も――すべて。
軽く、空っぽだった。
魂の一部を引き剥がされたかのように。
もはや祝福された英雄ではない。
ただの男。灰色の日常へ引き戻される存在。
「……分からないだろ……」
自分の声ではないように呟く。
「意味をくれた存在が……突然……消えるって……」
レオナルドが冷ややかに睨む。
「泣き言を言いに来たんじゃない。隙を見せれば、首を刎ねられても文句は言えないぞ。」
「お前には分からない……」
カルロは唸った。
「お前の神は生きている。俺は……もう、誰でもない。」
シオマラが顎を引き締める。
「もういい。集中しろ。ルシアンが近くにいたら、全員死ぬ。」
――遅かった。
地面が震えた。
根の間から影が槍のように伸び上がり、黒いマナの針が噴き出す。
歪み、鋭く、脈打つそれは、肉を探す蛇のようだった。
英雄たちは悲鳴とともに後退し、かろうじて初撃を避ける。
影から稲妻が炸裂する。
眩しく、乾いた閃光。誰も当たらなかった――だが森には黒い溝と煙が刻まれた。
再び、静寂。
重く、不吉な沈黙。
そして――咆哮。
金属的で、電撃のような咆哮。
呼吸を覚えた嵐のような音。
闇の中から現れたのは、ルシアンの魔獣――サンダー。
雷を纏う巨獣。歩くたび大地が震え、吐息はオゾンの匂いを残す。
その背に、憎悪で歪んだ笑みと慈悲なき眼を持つ男。
ルシアンだった。
レオナルドが叫ぶ。
「囮だ! 陣形を――!」
言い終わらなかった。
サンダーが突進する。
青い閃光。
乾いた雷鳴。
地面から引き剥がされる身体。
カルロは叫ぶ暇もなかった。
ルシアンは彼の頭を掴み、布人形のように持ち上げ、そのまま森の奥へ消えた。
アレハンドロが無駄に手を伸ばす。
「カルロ!」
返事はなかった。
代わりに、引き裂かれるような叫びが森に吸い込まれていく。
シオマラは歯を食いしばった。
「くそっ……!」
地面を殴る。
「完全に虚を突かれた!」
森は再び沈黙した。
重く、息苦しい静けさ。
空気には、まだオゾンの匂いが残っている。
そして遠くで、カルロの叫びは一つ、二つ、三つと消え――
やがて風の囁きだけが残った。
ルシアンは、次の獲物を狩っていた。




