神の降臨
公国の空が、千の光の亀裂に引き裂かれた。
まるで世界そのものが、最終審判を前に息を止めたかのようだった。
黒雲が不可能な螺旋を描いて渦巻き、純粋な輝きの雷光が薄闇を貫き、エリザベスが解き放った惨劇を照らし出す。
大地は生存者の足元で震え、あらゆる影が身をすくめた。
――魔物など比べ物にならない、何か“より上位の存在”が降り立ったのだ。
ルシアンは裂けた空を見上げた。
神の光が雲を切り裂き、公国全体に歪んだ影を落とす。
その一つ一つが、神々の裁きを告げているかのようだった。
だが、その壮大な光景よりも、彼の意識はもっと近くに引き寄せられていた。
戦場の残骸を呑み込む霧の中――
彼は“見覚えのある動き”を感じ取った。
目よりも先に、心がその存在を認識する。
エリザベス。
戦の咆哮の向こうから、柔らかく、それでいて確かな声が届く。
彼女だった。
限界を超えて愛した女性が、薄闇の中から彼へと歩み寄ってくる。
どこか、違っていた。
だが、その理由を考える余裕はなかった。
ルシアンは霧と散乱する死体の中に彼女を見つけると、迷うことなく強く抱きしめた。
周囲を覆う闇から守るかのように。
「どうしてここに……?」
心配が言葉の端々に滲む。
「危険だ。怪我をするかもしれない……宮殿に戻れ。そこから王都へ送られるはずだ」
エリザベスは微笑んだ。
危険と約束を孕んだ、どこか挑発的な笑み。
「いいえ……行かないわ」
その声は揺るがない。
「これが、私の望んでいた場所よ」
一瞬、世界が止まった。
周囲では戦が続き、降臨した神の光と闇がせめぎ合っている。
だが、二人の間には確かな“避難所”があった。
視線だけで交わした約束は、混沌も敵も死の奔流も消し去れない。
エリザベスは額をルシアンの額に重ねた。
夜のように深く、炎のように輝く瞳が、挑発と誘惑を同時に放つ。
「私が、あなたを傷つけさせると思う?」
遊びと脅しの刃を含んだ声。
「危険よ……あなたは戻るべき。次の攻撃がいつ来るか分からない」
ルシアンは頭を掻いた。
彼女の意志の強さを、誰よりも知っている。
ため息をつき、諦めと愛情を混ぜて言った。
「……俺のそばを離れるな」
エリザベスは一歩近づき、揺るぎない足取りで答えた。
いつも彼を無力にする、あの自信に満ちた笑顔で。
「ええ。絶対に、あなたのそばを離れない」
二人が並び立つ中、空はさらに裂けていく。
ルシアンが息を整える間もなく、
圧倒的な存在が公国へと降り立った。
――ヴェリリオン、降臨。
疲弊し、崩壊寸前の十字軍の生存者たちは、顔を上げた。
異様な静寂が戦場を覆う。
すべてが終わったかのように。
霧が歪み、木々が軋み――
そして、彼は現れた。
一筋の光が薄闇を貫く。
ヴェリリオンが天より降り、霧はその存在を前に屈した。
木々さえも、恐怖の証人のように身を低くする。
彼から放たれるマナの波動が闇を切り裂き、
十字軍の叫びと魔物の咆哮と混ざり合い、この世のものとは思えぬ轟音を生み出した。
光と影の不可能な均衡が、空気を震わせる。
疲れ果てた十字軍たちが見上げた瞬間、神のエネルギーが彼らを包んだ。
聖なる熱が全身を巡り、
傷は塞がり、疲労は消え、
砕けていた信仰が再び胸の中で燃え上がる。
「屈するな!
信仰は闇に折れぬ!
なぜ戦うのか、思い出せ!」
その声は心と森を貫き、兵士たちに決意を灯した。
軍が再編成される中、霧の奥に“空白”が生まれる。
闇が凝縮し、光を喰らう巨大な存在となった。
――ケリス。
太古に天界を追放された、闇の古神。
ヴェリリオンは立ち止まった。
本来、存在してはならない影。
「……旧友よ」
石を引きずる鉄のような声が響く。
オラクルは、蘇ってはならない死体を見るように彼を見つめた。
「ケリス……」
緊張を含んだ声。
「お前は、歴史になったはずだ」
二柱の存在に、大地が震える。
光と影のマナが衝突し、空気も木々も地面も歪めた。
十字軍には理解できなかった。
これは戦いではない――
太古から続く“清算”だった。
「嘘で私を追放したな」
ケリスの瞳が、裏切りの年月で燃える。
「偽りの幻視……捻じ曲げられた預言……
すべては、新たな女神のためだった」
ヴェリリオンの光が揺らいだ。
「均衡のためだった……」
声は、もはや確信に満ちていない。
「世界を守るために、お前は――」
「守る、だと?」
ケリスは吐き捨てた。
オラクルの声が変わる。
神性が剥がれ、人間的な恐れが滲む。
「……まさか」
震えた問い。
「この“誤り”を、この世界に持ち込んだのは……お前か?」
ケリスは冷たく微笑んだ。
「ああ、“誤り”だ」
囁くように。
「ルシアン。
存在してはならなかった人間」
ヴェリリオンの周囲で、聖なる光が砕け散る。
「異界から引き抜いたのか!」
怒りと恐怖が混じる咆哮。
「運命の書に記されぬ魂を!」
ケリスの笑いは音にならない。
希望、熱、音を喰らう“虚無”だった。
「その通りだ」
歩み寄りながら言う。
「運命を持たぬ存在。
お前の視界に映らぬ“数値”。
彼のおかげで、お前の書は血を流し……
永遠のオラクルよ、お前はもう何も見えない」
神は、言葉一つ一つに傷つくかのように身を強張らせた。
十字軍は魂で理解する。
信仰も神も、この戦争も――
今、書き換えられている。
ケリスの目的は破壊でも救済でもない。
ただ一つ。
――裏切った神を、引きずり落とすこと。
「人を操ることは許さぬ!」
ヴェリリオンが叫ぶ。
光と影が激突し、空が燃え上がる。
マナと闇が狂ったように絡み合い、
真の神性を目撃した十字軍は、再び武器を掲げた。
もはや、これは聖戦ではない。
神意と神意の衝突――
そして、人類はその狭間に立たされていた。




