選ぶことを許されなかった男
公爵領の夜は、澄み切っていて、凍るほど冷たかった。
風が音もなく草原を揺らし、まるで領地そのものが息を殺しているかのようだった。
ルシアンは一人だった。
城の展望台に立ち、あまりにも広すぎる空を見上げていた。
逃げ場のない自分には、不釣り合いなほどの広さだった。
戦略は考えていない。
予言のことも考えていない。
――ただ、理由を知りたかった。
闇の閃光が、その思考を断ち切った。
音もなく、夜に裂け目が走るように、ケリスが現れる。
その存在は肉体というより、影そのものだった。
「落ち着かないようだな」
世界の静寂に不満そうな、穏やかな声で神は言った。
ルシアンは空から視線を外さない。
「……何も変わらなかった」
声は空虚で、異様なほど平坦だった。
まるで悲劇を、雑談のように語っているかのように。
「どれだけ足掻いても……俺は、ここで死ぬ運命なんだ」
ケリスは否定しなかった。
ただ近づき、手袋越しの手を冷たい手すりに置く。
「戻ることはできない」
静かに告げる。
「お前を連れて行くことは、最初から不可能だった。かつて一度だけ、神々の失われた遺物を使って成し遂げたが……二度はない」
簡潔な言葉。
論理的な事実。
だがルシアンにとって、それは肺から空気を奪う宣告だった。
喉が焼けつく。それでも、言葉を絞り出す。
「……じゃあ」
「俺を救ったわけでもない」
「ただ……引き裂いただけか」
沈黙。
その沈黙は、どんな答えよりも残酷だった。
ルシアンは歯を食いしばる。
叫ばない。泣かない。
ただ、顎に硬い線として憎しみを刻む。
「……俺を、死なせるために連れてきたんだな」
ケリスは謝らない。
罪悪感も見せない。
それは、冬が訪れるのと同じくらい必然だった。
「許さなければ、死なない」
悪魔は言う。
「お前はもう、弱くない」
ルシアンは笑った。
力のない、乾いた笑い。
溺れる者の喉から漏れるような音だった。
「数が違う……」
「何百、何千だ。祝福された英雄、神殿、王たち」
「戦えば、俺の民が一緒に死ぬ」
「逃げれば……俺のせいで死ぬ」
「救えない……誰も」
「殺さずに、死ぬこともできない」
ケリスは耳を傾ける。
子供が初めて火に触れ、熱を知るのを見守るように。
「数は関係ない」
囁くように言った。
「真の力は、それらを喰らう」
そして――告げた。
助言ではない。
救いでもない。
別の形をした、宣告だった。
「公爵領全体に魔法をかけられる」
「数年にわたる夜を落とす」
「敵は信仰を失い、道を失い、力を失う」
「そしてお前は――」
「その闇と共に、狩ることができる」
ルシアンは、ようやく振り返った。
怒りではない。
それよりも、もっと深いもの。
――恐怖。
神殿への恐怖ではない。
運命への恐怖でもない。
選ばなければならないことへの恐怖。
「それは……」
掠れた声で呟く。
「それは、すべてを滅ぼす」
「作物も、土地も……俺の、民も」
ケリスは首を傾げた。
本当に理解できない、という仕草で。
「だが」
「神々は、すでに彼らを滅ぼしているのではないか?」
ルシアンは答えられなかった。
――真実だったからだ。
そして、耐え難いほどに不公平だったからだ。
自分の手を見る。
望んだことのない戦争で乾いた血。
空を見る。
名前すら知らぬまま、自分を殺そうとする世界。
この地に来てから、初めて――
怒りを感じなかった。
感じたのは、疲労。
虚無。
そして、理不尽な願い。
臆病だからではない。
ただ――
一度も、選ばせてもらえなかったから。
ケリスが再び口を開く。
絹に包まれた刃のような、優しい声で。
「選ばねばならない、ルシアン」
「それだけは、決して避けられない」
ルシアンは目を閉じた。
そうすれば、世界から逃げられる気がして。
そして、恐ろしい感情に気づく。
英雄になりたくない。
悪魔になりたくない。
世界が押しつけた、何者にもなりたくない。
――ただ、一度でいい。
人生が、自分のものであってほしかった。
夜明け。
ダグラス公爵領の中央広場は、即位の日と同じほど人で溢れていた。
だが、祝祭はない。
聖旗も、神官の姿もない。
あるのは――急ぎ集められた民だけ。
即席の演壇の上から、ルシアンは顔を見渡す。
耕作で硬くなった手。
助けを乞わないことを学んだ目。
古い誓約の痕を残す戦士たち。
疲れてはいる。
だが、折れてはいない。
深く息を吸う。
真実を飾るつもりはなかった。
「世界中が――」
口を開く。
「神々からの命令を受けた」
「俺は、神の敵とされた」
「……俺を殺しに来る」
言葉は石のように落ちた。
誰も騒がない。
誰も叫ばない。
ただ、沈黙。
鍛えられる前の鋼のような、重い沈黙。
「よく聞いてほしい」
ルシアンは続ける。
「戦えとは言わない」
「巻き込まない」
「盾にも使わない」
「今この瞬間から、去りたい者は自由だ」
「生きることを選んだ者に、罪は背負わせない」
冷たい風が吹き抜ける。
壁を覆う蔦が揺れた。
まるで、それすら聞いているかのように。
「――すべての責任から、解放する」
そして。
沈黙は、死んだ。
抗議でも、涙でもない。
一つの声だった。
低く、割れ、年老いた声。
「――嘘だ」
ルシアンの心臓が跳ねる。
老兵が群衆を割って進み出る。
槍に体重を預けながら。
擦り切れた軍装。
だが胸には、誇らしく縫い付けられたダグラスの狼。
彼は立ち止まり、ルシアンを見据えた。
山よりも高く見えた。
「ダグラスは、民を解放しない……!」
燃えるような目で叫ぶ。
「共に戦うんだ!」
轟音が、即座に広場を揺らした。
何千もの拳。
何千もの声。
「領主と共に生きる!」
「領主と共に死ぬ!」
宗教的狂信ではない。
それは――アイデンティティ。
マナの嵐でも消えなかった、公爵領の教義。
公爵なき公爵領は存在しない。
民なき公爵も存在しない。
難民が加わる。
子供たちが地面を踏み鳴らす。
貴族たちが、儀式なしに誓いを唱える。
その瞬間、ルシアンは痛烈な皮肉を感じた。
救おうとしているのに――
すでに、彼らは自分のために命を差し出している。
アデラが、虎を伴って群衆の中から現れる。
質素な服装だった。
だが、その声は谷を支配した。
「公爵の言葉を聞いて!」
「彼はこの運命を望んでいない!」
「あなたたちに、生きてほしいの!」
民は、一つの意志として応えた。
「彼が死ぬなら、我らも死ぬ!」
アデラは目を閉じた。
自分を支えてきた愛に、打ち負かされて。
ルシアンは視線を落とす。
靴の下の砂が、鼓動に合わせて震えている気がした。
――救えない。
――だが、捨てることもできない。
泣かなかった。
叫ばなかった。
ただ、受け入れた。
そして声を上げる。
逃げる若者としてではなく――
導く者として。
「ならば、準備しろ!」
「神々が、俺たちから“在り方”を奪いに来るなら――」
「俺たちが、何を選んだかを教えてやる!」
城壁の蔦が、生きた筋肉のように張り詰める。
兵士たちが武器を地面に打ちつける。
何千もの魂が、叫んだ。
「ダグラスは、跪かない!」
その時、ルシアンは初めて理解した。
運命は、鎖ではない。
――武器なのだ。
そして、ただ一つ誓う。
神々が戦争を望むなら、応じよう。
だがそれは、悪魔との戦争ではない。
公爵領ダグラス全体との戦争だ。




