肉と血の前兆
ルシアンがアクロポリスの街路を馬で進むたび、背中に突き刺さる視線を感じていた。
それはただの好奇の目ではない。
値踏みする目。測る目。
――そして、彼を疑う目だった。
囁き声が足元を這うように広がっていく。
まるで見えない深淵へと追い立てられる枯葉のように。
彼を避けていたのは、貴族や兵士だけではなかった。
農民も、商人も……そして子どもたちでさえ、目を逸らした。
恐怖が、アクロポリスの空気そのものを汚染しているかのようだった。
ルシアンは手綱を強く握りしめ、眉をひそめる。
旅の疲れではない。
もっと深いところで――何かが、確実に変わっていた。
やがて、王宮大広間の扉が開かれた。
彼らは共に歩く。
先頭に立つルシアン。
王族としての威厳を纏うエリザベス。
そして、傷を負いながらも決して背を曲げない、戦士のようなエミリーとカラ。
衛兵たちは彼らを見つめていた。
敬意と……恐怖を込めて。
ルシアンが敷居を越えた瞬間、フェリペ・エルクハン王は立ち上がった。
形式など待たない。感情も隠さない。
「ルシアン……」
その声には、王だけが背負う疲労が滲んでいた。
「このような迎え方でなければ、どれほどよかったか」
王は近づき、戦場から帰還した我が子を迎えるように、両手で彼の肩を掴んだ。
「娘を無事に連れ帰ってくれた。その恩……一生かかっても返せぬ」
ルシアンは静かに、わずかに頭を下げる。
「陛下。我々は任務を遂行したまでです。王女を守り、必要とあらば帝国を支援しました」
エリザベス王女が一歩前へ出る。
澄んだ、揺るぎない声で。
「父上……私たちは戻ってきました。
幾つもの都市を救い、村を喰らう魔物を食い止め……」
一瞬、呼吸を整え――
「彼のおかげで、私はここに立っています」
王妃アデレインは娘を強く抱きしめ、
王子アンドリューもまた近づき、軽く頷いてルシアンに感謝を示した。
フェリペ王は、かすかに微笑んだ。
その表情には、確かな安堵と感情が宿っていた。
だが――それ以上の時間は、与えられなかった。
内殿の神殿から、鐘の音が三度響く。
重く。
不吉に。
白い外套と黄金の仮面に身を包んだ者たちが、側廊から進み出てくる。
――ヘラルド。
天上教義の神官たち。
今や、その言葉は多くの貴族よりも重い。
隊の先頭に立つ、姿勢の硬い壮年の男が、王とルシアンの間に立った。
その眼差しに、露骨な敵意が宿る。
「モンドリング公爵、ルシアン・ダグラス……」
抑えた声。しかし緊張が滲んでいた。
「オラクルは、お前の影を視た。
神々は警告している。
お前は、この世界に破滅と災厄をもたらす存在だ」
空気が一変する。
重く、息苦しいほどに。
真っ先に反応したのはエミリーだった。
「はぁ!? 破滅ですって!?」
一歩踏み出し、声を荒げる。
「間違いです! ルシアンは命を救った! 何千人も!
彼は、理由もなく誰かを傷つける人じゃない!」
苛立ちを隠さず、カラも前へ出る。
「何も悪いことをしていない人間を、なぜ裁く?」
エリザベス王女は、何も言わなかった。
その沈黙は、どんな叫びよりも危険だった。
彼女が指を動かせば、王宮騎士団は即座に剣を抜くだろう。
フェリペ王が手を上げる。
「静まれ!」
命令だったが、その声には権威よりも痛みがあった。
「諸君……これはどういうつもりだ?
話は聞こう。だが忘れるな。
この王国の最終判断を下すのは、今も私だ」
ヘラルドたちは一歩、さらに前へ。
圧をかける。
まるで、血の匂いを嗅ぎつけたかのように。
ルシアンは、深く息を吸った。
そして――自ら、前に出た。
大広間の中央に立つ。
ステンドグラスから差し込む光が、まるで神の裁きのように彼を照らす。
「俺の死を語っているのだろう」
低く、揺るぎない声。
「否定するな。望んでいるはずだ」
その視線が、ヘラルド、神官、そして狂信者たちを順に貫く。
ルシアンは剣に手を伸ばさなかった。
必要ない。
ただ、顔を上げ、そこにいる全員を測った。
「俺の命を欲する者がいるなら……」
一拍。
空気を真っ二つに裂く沈黙。
「――自分の命を失う覚悟をして来い」
松明が揺らめいた。
仮面の奥は見えなくとも、ヘラルドたちが息を呑んだのは明らかだった。
大広間は、完全な沈黙に包まれる。
羽根一枚落ちても、その音が響いただろう。




