『エルドラの守護者』
カラは歯を食いしばった。
一人では戦えない。
この獣を抑え込むには、正面から押し切るのではなく、ミスを犯させなければならない。
鍵となるのはエミリー――
そして、それをS級オメガも理解していた。だからこそ、さらに危険だった。
「――今よ、エミリー!」
カラは身を張って前に出ながら叫んだ。
そのとき、デイアナが口を開いた。
声は掠れ、手は小型獣の血で染まっている。
「……あれは、死体を狩っているんじゃない」
「領域を狩っているのよ。私たちが侵入者……だから排除しようとしてる」
エミリーは愕然とした表情で怪物を見つめた。
「じゃあ……街は?」
「狩場にある障害物でしかないわ」
デイアナは淡々と言い切った。
「街がある限り、領域は完成しない。この一帯はもう、あいつのものなの」
S級オメガは、獲物を値踏みする猫のように、目だけで笑った。
影が分裂し、ぼやけた残像となって複数の角度から襲いかかる。
狩人たちは完璧な連携を強いられた。
激突は続く。
回避不能の一撃を受け、カラは地面を転がった。顎から血が滴る。
それでも立ち上がる。
エミリーの純光が怪物を押し返すが、その瞳に焦りはなかった。
アルバートは側面を守り、
デイアナは倒した獣の血を踏み越えながら制圧を続け、
ローラは死線の外に保たれていた。
すべてが、紙一重の生存だった。
再びエミリーを庇い、ルシアンは衝撃を受けて膝をついた。
血が脈打つ――内側で、何かが応えた。
そのとき。
雷馬サンダーに跨ったエリザベスが、兵の列から姿を現した。
彼女は感じていた。
――この怪物と、繋がれる。
ゆっくりと前進し、ルシアンの近くまで来ると、
理解しきれないまま、エリザベスは心を開いた。
支配ではない。
警告のために。
「――やめなさい」
氷のような声。
「さもなくば……死ぬわ」
S級オメガは空気を嗅ぎ、ほんの一瞬、動きを止めた。
それは命令でも、強制でもない。
危険な境界線。
権威はない。
あるのは――リスクだけ。
そして、その声は世界そのものが囁くかのように、
低く、正確に響いた。
『ここまでだ。無傷で狩れるのは』
『この先では……夜はお前の味方ではない』
怪物は退かなかった。
だが、進みもしなかった。
カラは肩で息をしながら叫ぶ。
「――倒せる! 続けよう……!」
戦いは終わっていない。
だが、地形は変わった。
森が息を詰める。
エミリーの光でさえ、鼓動のように脈打っていた。
《喰らう者》は観察する。計算する。
衝突は、まだ始まったばかりだ。
低い唸り声が、根と幹の間を震わせた。
獣ではない。
動きは洗練され、無駄が消えていく。
尊重――
そして、脅威。
戦略家。捕食者。計算者。
ルシアンは歯を食いしばり、痛みに逆らって立ち上がった。
同じ属性を支配する敵。
肉体だけで戦い、仲間を守る――最悪の条件だ。
それでも、進むしかない。
一歩ごとに、張り詰めた空気が裂けていく。
黒いオーラは爆発ではなく、
潮のように滲み出し、静かに空間を占有していった。
「……人間ども」
獣が唸る。
「なぜ、我が領域を侵す?」
ルシアンは数歩手前で止まった。
声を荒げない。
「お前の領域は、街の手前までだ」
「そこは認めよう。誰も越えない」
「――だが、お前も人の元へは来るな」
オメガは首を傾げ、匂いを確かめる。
沈黙が支配する。
怪物は認めたくはなかったが、
赤髪の女の一撃は、すでに限界に近づいていた。
続けば――撤退が必要になる。
恐怖はない。
迷いもない。
認識だけがあった。
『エルドラを巣にすることは許さない』
エリザベスの声が、直接意識に流れ込む。
『契約を受け入れるなら、命は保証する』
低く、深い咆哮。
それが、合意だった。
従属はない。
服従もない。
領域の保護。
人間への無関心。
古代のルーンが一瞬、空に燃え、消えた。
単純で、残酷で、明確な誓約。
――攻撃されない限り、攻撃しない。
エミリーが、信じられないように呟く。
「……倒さない、んですか?」
「いいや」
ルシアンは答えた。
「雇っただけだ」
その笑みは疲れ切っていて、皮肉で――
そして、完全に満足していた。
ローラ・ヴァレンタインは槍を下ろす。
父はエルドラを守って死んだ。
今、その境界を怪物が守る。
恐怖はなかった。
あるのは、獰猛な希望。
S級オメガは影の中で佇む。
人ではない。
高潔でもない。
忠誠もない。
ただ、約束を守る存在。
森は再び息をした。
血の勝利はない。
戦いは、終わった。
街は手に入れたのだ。
政治にも、戦争にも裏切られない守護者を。
それで、十分だった。
エミリーはかろうじて立っていた。
鎧は砕け、肌は闇のマナに焼かれている。
ルシアンは肋骨を三本折りながらも、前に立ち続けた。
カラは緊張を解かず、
アルバートとデイアナはローラを守る。
デイアナが囁く。
「……評価してる。脅しじゃない。線引きよ」
「序列と承認を求めてる」
S級オメガは頭を下げ、爪で土を引っ掻いた。
――受諾。
エルドラは、守護者を得た。
もし、境界を越えれば……
交渉はない。
あるのは、狩りだけだ。




