『影狩り(シャドウ・ハント)』
エルドリア東部は、完全な沈黙に包まれていた。
鳥の声も、風のざわめきも、虫の羽音さえもない。
張り詰めた静寂を破ることを、森そのものが拒んでいるかのようだった。
黒く焦げた幹と、絡み合う根の間を、狩人たちが進む。
二十名。
男女入り混じり、腹の奥に恐怖を抱えたまま。
彼らは栄光も、名誉も求めていない。
ただ――義務だから、前へ進んでいた。
先頭を行くのはアルベルト。
その視線は冷たく、正確で、幾年もの戦と血によって鍛え上げられていた。
「不規則盾陣形」
彼の声は、反論の芽を断ち切る刃だった。
「誰も離れるな。単独行動は禁止だ。
――もし“それ”を見ても、攻撃するな。抑え込め」
右側では、エミリー・カーターが胸元に光の球を抱いていた。
脈打つその輝きは、燃える心臓のよう。
それは慰めではない。
影そのものを焼き、肉眼では捉えられぬ存在を暴く、生きた武器だった。
エミリーの隣を進むルシアン・ダグラスは、まだ剣を抜いていない。
外套が地面を擦る音は、悲劇の前兆のようだった。
彼の声は低く、鋭い警告となって落ちる。
「三歩以上離れたら、守れない」
「守りはいらないわ」
エミリーは森から視線を逸らさない。
「必要なのは……浄化よ」
「浄化は、自殺だ」
返答はなかった。
二人とも、死と議論する時間は持ち合わせていなかった。
その時、前方でダヤナが急停止した。
彼女の掌を裂いた血が地に滴り落ちる。
すると血の雫は、東へと伸び、まるで生きた血管のように脈動し始めた。
「……近い」
囁き。
「とても、近いわ」
カラは待たなかった。
力の英雄は一歩踏み出し、首を鳴らす。
鎧の下で筋肉が張り詰め、歯を食いしばる。
彼女にとって、恐怖は招待状。
危険は、挑戦だった。
アルベルトが手を上げ、衝動を制す。
「破壊するな」
命令は揺るがない。
「拘束しろ。エミリーの光が、奴を“物質化”させる」
カラは短く、残酷なほどの笑みを浮かべた。
「なら、何度も“物質化”させてやる」
――大地が、震えた。
最初は、囁きだった。
長い時を耐えていた森が、ようやく息を吐いたかのような微振動。
そして……沈黙。
あまりにも完全な静けさに、狩人たちの心臓さえ止まったかのようだった。
乾いた軋み音が、遠くで鳴る。
一つ。
また一つ。
枯れ木が、傾き始める。
何かが、地を踏まずに、その間を滑っている。
歩いていない――移動している。
霧が濃くなり、冷たい汗のように肌に張り付いた。
エミリーが息を詰める。
「……いる」
胸元の光球が、一度だけ脈打った。
生きた心臓のように。
ルシアンは視線を上げぬまま、低く呟く。
「動くな」
アルベルトが盾を掲げ、全員が即座に追従する。
歪な壁。
抑えた呼吸。
震える手で握られた槍と、火花を散らすグリフ。
ダヤナは目を閉じ、紫がかった血の筋が頬を伝った。
「……一方向じゃない」
声が震える。
「囲まれてる……」
低く、掠れた、異形の笑い声が、幹の間を這い回る。
カラが一歩前に出た。
「聞こえたわ。
――で、そろそろ頭を砕いていい?」
アルベルトが歯を食いしばる。
「まだ――」
森が、爆ぜた。
左側から影が跳躍する。
鞭のように速く、マナと殺意の塊となって。
二本の木が、藁のように引き裂かれた。
「――盾ッ!!」
アルベルトの叫び。
狩人たちは盾を打ち合わせた。
衝撃は凄まじく、金属は歪み、地面に足が沈む。
二人が膝をつき、血を吐いた。
エミリーが震える手を伸ばす。
皮膚の下で、見えない炎が燃え盛る。
指先から血が滴り落ちる。
心臓の鼓動が、純粋な電流となって血管を駆け巡る。
「……守って!」
叫びは、力に引き裂かれていた。
ルシアンが即座に寄り添い、彼女の肩に手を置く。
暴走しかけたエネルギーを抑え込むために。
カラは前に出て盾を構え、空地の縁を睨む。
次の一撃を、全身で受け止める覚悟で。
ダヤナは掌を開き、紫の血を数滴、エミリーのマナへと流し込む。
命を繋ぐ、細い糸のように。
空気が重くなる。
密度を増し、エミリーの筋肉と魂を同時に焼く痛みで震え始めた。
一拍ごとに背が反り、呻き声が漏れる。
集中を失えば、光は彼女自身を喰らい尽くす。
音なき波動が、空地へと広がった。
それは肉体を傷つけない。
内側を蝕む腐食だけを、砕くための力。
猫科魔獣を包む影が、濡れたガラスのようにひび割れる。
だが時が経つほど、エミリーの血は増え、呼吸は荒くなり、膝が崩れそうになる。
「もう少しだ!」
ルシアンが叫ぶ。
彼の黒いオーラが波打ち、魔力の反動から彼女を守る。
腐食された魔獣たちは、よろめき始めた。
瞳に、目覚めたばかりの意識が宿る。
そして――恐怖を知る。
逃げはしない。
失われたものを取り戻そうと、狂気のままに襲いかかる。
エミリーは膝をついた。
全身を貫く痛みに震えながらも、視線は空地から逸らさない。
カラとルシアンが彼女を支え、
ダヤナは血とマナの流れを維持し、崩壊を防ぐ。
「……今よ」
エミリーの声は、かすれた糸のようだった。
「抑えて……私は……線を、保つ……!」
一秒一秒が試練だった。
一呼吸が、最期になり得た。
それでも、エミリーの光は森を照らす。
触れ得ぬものを実体化し、怪物とその従者を白日の下に晒しながら、彼女自身の命を削っていく。
やがて波動は安定した。
エミリーは地に伏し、蒼白な顔で息を荒くする。
皮膚には火傷、身体には血痕。
だが――成し遂げた。
腐食は砕かれ、影は暴かれ、
魔獣たちは意識を取り戻した。
より自覚的で、より凶暴な脅威として。
「……もう……二度と……」
エミリーが囁く。
「……あれは……できない……」
ルシアンとカラが彼女を支え、
ダヤナが血を拭い、残されたマナを安定させる。
空地は照らされ、
影の一つ一つに、危険が脈打っていた。
――そして、戦いは……
まだ、始まったばかりだった。




