『深淵なる者の痕跡』
――怪物の運命
それは、道を認識することなく逃げていた。
頼れるものは本能だけ。
深淵なる者の黒き爪は、乾ききらぬ血を滴らせながら、都市の境界を越え、東方の密林へと踏み込んでいった。
そこでは霧が決して晴れることはなく、地面そのものが眠る獣のように、ゆっくりと呼吸しているかのようだった。
一歩踏み出すたび、闇のマナが火花のように散り、森がその存在を警告しているかのように揺らめく。
生き残っていたのは、四体の猫科魔獣のみ。
都市への襲撃で群れの半数は失われた。
だが、その四体は違っていた。
その瞳には、もはや純粋な獣性はなく、かすかな“理解”の光が宿っていた。
マナが彼らを変質させたのだ。
彼らは深淵なる者の傍らを進む。
それは、主としてか――あるいは、神としてか。
アビスマルの体内には、異様なことに二つの力の核が存在していた。
自ら制御するにはあまりにも荒々しいエネルギー。
それでも内側から何かが彼を導いていた。
黒い岩に囲まれ、淡く光る菌類に覆われた、隠された空地へと。
大地は裂けた傷口のようにマナを滲ませていた。
そこで彼は低く唸り、獣の衝動のまま地面を引き裂き、領域を刻む。
――ここが、己の支配地。
狩りのための王国。
あるいは……進化の揺籃。
その暴れ狂うエネルギーは、見逃されなかった。
遥か彼方、氷に覆われた断崖の間で、ダヤナはその痕跡を追っていた。
猟犬も、案内人も、地図すら不要。
空気が震えていた。
彼女にしか感知できない周波数で――魔力、恐怖、そして……それ以上の何か。
それは、彼女を引き寄せていた。
まるで、彼女の属性核そのものが、生きた羅針盤であるかのように。
突風が彼女を打ち、薄紫の瞳が瞬いた。
「……想像以上ね」
囁く声。
「でも、これは恐怖じゃない……興味よ」
怪物は、隠れてなどいなかった。
世界に対して、自らの居場所を宣言していた。
そしてダヤナは、一歩、また一歩と、確実にそれへ近づいていく。
彼に従う猫科魔獣たちは、もはやただの獣ではなかった。
かつては沈黙の狩りを極めた、狡猾な捕食者。
今は腐食され、その知性は歪みながらも残されている。
彼らは信じていた。
踏み入れた場所すべてが、自分たちの領域だと。
灼熱の陽光の下、もはや擬態も効かぬというのに。
彼らは優位を探さなかった。
アビスマルが植え付けた傲慢さが、危険を測る力を奪っていた。
「……動きが獣じゃない」
丘の上から空地を観察し、ダヤナが低く呟く。
「ここは、もう自分たちのものだと信じてる」
「つまり、退かないってことね」
エミリーがグリモワールを開きながら応じる。
「退かないなら……壊せるわ」
彼女が手を伸ばすと、周囲の空気が一変した。
重く、濃密に。
青白い電光が指先で弾け、唸りを上げる。
「エミリー、まだだ」
剣の柄を調整しながら、ルシアンが低く制止する。
「弱らせれば……全部来るぞ」
「それが、狙いよ」
次の瞬間、詠唱も予兆もなく、魔法が解き放たれた。
音なき波動が空地を覆う。
それは大地を脈打つ巨大な鼓動のように広がり、肉体ではなく、内側を蝕む腐食だけを砕いた。
猫科魔獣を包んでいた影が、濡れたガラスのように砕け散る。
闇のマナは後退し、霧散し――
そこに残されたのは、空虚で、無防備で……
そして、初めて“自覚”を取り戻した存在だった。
その瞬間、彼らは恐怖を知った。
だが――逃げなかった。
失われたものを取り戻そうと、狂気と絶望のままに襲いかかる。
爪が武器とぶつかり、金属的で凶暴な音が森に響く。
牙は喉元を狙い、咆哮はより深い何かを呼び覚ました。
森そのものを揺るがす、太古の共鳴。
ダヤナは、空気の変化を感じ取った。
「……彼らは、領域を守る」
囁き、その薄紫の瞳が刃のように鋭くなる。
「死ぬことになっても」
その時――
空地の中心で、深淵なる者がゆっくりと頭を上げた。
魔法は彼を目覚めさせた。
そして森全体が、息を呑んだかのように静まり返った。




