実らぬ代償
ブラーゴズは、
赤い煙となって崩れ去った。
誰もが、
母なる樹の再生を見つめていた。
――ただ一人を除いて。
ダヤナは、光を見ていなかった。
涙を流すエルフたちも、
癒えていく森も、
彼女の目には映らなかった。
彼女が見ていたのは、
あの煙だけ。
あの、忌まわしい煙だけだった。
脚が震えた。
弱さからではない。
怒りからだ。
二年間、
彼女は胸に炎を抱えて生きてきた。
二年間、
その首を自分の手で引きちぎる夢を見続けた。
二年間、
殺すための機会を探し続けた。
それなのに――
今、ブラーゴズは、
彼女の目の前で消えていく。
彼女に、
“殺す権利”を与えないまま。
「いや……!」
ダヤナは叫んだ。
憎しみと痛みで、声が裂ける。
「消えるな……!
消えるなぁぁぁっ!!」
彼女は煙へと駆け寄り、
突き抜け、
悪魔の残滓を掴もうとした。
だが、
その手が掴んだのは空虚だけ。
煙は、
指の隙間からほどけて消えた。
ダヤナは膝から崩れ落ちた。
爪が大地に突き刺さる。
牙が伸びる――
噛みつくためではない。
叫ぶために。
彼女は叫んだ。
空気を引き裂き、
残っていた魔物たちを後退させ、
再生しつつある森さえ、
一瞬、沈黙させるほどの叫びだった。
エミリーが一歩踏み出しかけたが、
ルシアンが肩に手を置いて止めた。
「……今は、放っておけ」
ダヤナは地面を殴りつけ、
足元の根が砕けた。
「私が殺すはずだった!!
私が……私が!!
あいつは、私に借りがあった!!」
嗚咽混じりに叫ぶ。
「返してもらうはずだったんだ、ブラーゴズ……!
……全部……全部……!」
彼女は前に倒れ、
額を地面につけたまま震え、
血の涙を流した。
吸血鬼が泣くことは、ほとんどない。
だが今日、
彼女は――
二度目の家族を失った子どものように泣いていた。
ルシアンは、
ゆっくりと彼女に近づいた。
その気配を感じ、
ダヤナは壊れた声で呟く。
「……ルシアン……
どうして……
私は……あいつが、懇願する姿を見たかった……
すべてを失う気持ちを……
分からせたかった……」
声が、完全に崩れた。
ルシアンは、
慰めが得意な人間ではない。
それでも彼は膝をつき、
彼女の背に手を置いた。
「……分かる」
低く、そう囁く。
「お前が手を下さなくても……
ブラーゴズは、楽には死んでいない」
ダヤナの嗚咽が、一瞬止まる。
「恐怖の中で死んだ。
敗北の中でな」
彼は続けた。
「それに……
お前の父の仇は討たれている。
ブラーゴズがどう死んだかじゃない。
お前が……
あいつより長く生き残ったこと、それ自体がな」
ダヤナは目を閉じた。
新しい涙が、静かに頬を伝う。
「……私は……
この手で、倒したかった……」
「倒れた」
ルシアンは静かに答える。
「そして、それをやったのは……
俺たちだ」
「今日、
あいつは何も奪っていない。
……取り戻したんだ」
ダヤナは深く息を吸い、
顔を拭った。
彼女のオーラは安定し、
制御された熾火のように瞬いた。
赤い瞳に、再び焦点が戻る。
ゆっくりと立ち上がり、
震えながらも、はっきり言った。
「……ありがとう」
「でも勘違いしないで。
もし生き返ったら……
首を折るのは、私だから」
ルシアンは、片方の口角だけを上げた。
その時――
巨大な幹を、緑の脈動が駆け上がった。
螺旋を描くように、
まるで母なる樹が、
何年ぶりかに呼吸するかのように。
腐敗で黒ずんでいた葉が落ち、
地面に触れた瞬間、
新たなエメラルドの芽として生まれ変わる。
傷つき、疲弊し、
血を流していたエルフたちは、
ただ立ち尽くしていた。
そして――
感じた。
森の声が、戻ってきた。
柔らかく、温かく、
純粋なマナを含んだ風が戦場を巡る。
エルフたちの身体が淡く光り、
傷が塞がり、
血管を流れる樹液が、
再び森と調和して脈打った。
グリセラは膝をつき、
硬い顔に涙を流した。
「……戻った……
森が……戻ってきた……」
他のエルフたちも、
母なる樹へと頭を垂れる。
それは崇拝ではない。
再会だった。
遥か奥――
生きた樹皮の柱と、
弓のように持ち上がった根の間で、
一つの影が、ゆっくりと立ち上がる。
アエルテリオン。
自然神の使徒。
永遠の森に閉じ込められた星のような瞳。
古き葉と輝く樹液で形作られた身体。
彼は、
すべてを見ていた。
苦しみも。
絶望も。
そして――
ルシアンが、
時間から忘れ去られた名前を切り落とすように、
剣を振るった瞬間も。
使徒は拍手しない。
称賛もしない。
介入もしない。
ただ、
ブラーゴズが消えた場所を見つめ――
冷え切った声で、囁いた。
「……役立たずの悪魔だ」
軽蔑でも、怒りでも、恐怖でもない。
それは、
朽ちた幹で死ぬ虫を見るような声だった。
彼は背を向け、
緑の光が樹皮に道を開く。
即席の神殿――
半分が樹で、半分が精霊の聖域。
アエルテリオンは振り返らずに中へ入り、
樹皮は、
最初から何もなかったかのように閉じた。
戦争は、終わっていない。
だが――
最初の悪魔は、倒れた。
サンダーが疲れたように鼻を鳴らす。
エミリーは地面に座り込み、
再生した葉の隙間から空を見上げた。
エリザベスは黙ったまま、
自分の中の悪魔のマナが、
この純粋さに震えるのを感じていた。
ダヤナは牙を舐める。
「……ルシアン」
「……今は、やめろ」
彼は疲れ切った声で言った。
「……少し、休ませてくれ」
だが、
その時間は与えられなかった。
エルフの長、グリセラが近づいてきたからだ。
他の者たちは弓を引き――
ルシアンは反射的に剣を構える。
グリセラは手を上げ、
仲間に武器を下ろさせた。
そして――
彼の前で、頭を下げた。
「森の子らを代表して……
我らの故郷を取り戻してくれたこと、
感謝する」
ルシアンは息を吐く。
「……あんたたちのためじゃない」
グリセラは、まっすぐに彼を見た。
「分かっている。
だが……
森は、違う」
その瞬間、
ルシアンは言葉を失った。
母なる樹は、
完全に再生してそびえ立っていた。
葉は純光を宿し、
樹液は力強く流れている。
森は、ようやく呼吸していた。
それでも――
ルシアンは笑わなかった。
樹の前で、
彼は“欠けているもの”を見た。
ゲームの記憶に、
何度も現れたはずの果実が――
そこにはなかった。
そして、
決して現れないことも分かっていた。
その果実は、
母なる樹の涙から生まれるものだった。
彼は、
シミュレーションでそれを見ていた。
だが今――
涙は流れない。
樹は、
かつて悪魔に侵され、
穢されていた。
そして浄化された今、
エリザベスを救うはずだった
“涙の循環”は、
永遠に断ち切られたのだ。
エリザベスは視線を落とし、
取り戻せない痛みを押し殺した。
エミリーは彼を見つめ、
呼吸を合わせ、
一人じゃないと伝えようとしていた。
「……ルシアン」
エリザベスが囁く。
「自分を責めないで。
あなたにしかできないことをした。
森を救い、エルフを救い……
私を、救ってくれた」
「……しっ」
エミリーが肩に手を置く。
「私たちは、ここにいる。
あなたがしたことは、全部意味があった」
ルシアンは頭を下げた。
罪悪感が胸を押し潰し、
同時に、
あまりにも愚かなミスをしたことを理解していた。
二人は近づき、
肩を並べ、
彼を挟むように抱きしめる。
「あなたと一緒なら……」
エリザベスが囁く。
「きっと、大丈夫」
「果実なんて関係ない」
エミリーが続ける。
「あなたが、ここにいる。
それで十分」
ルシアンは目を閉じ、
深く息を吸った。
二人に支えられながら――
それでも、
内側の罪は消えなかった。
再生した森は輝いていた。
だが彼には、
目的が果たされなかったことだけが残った。
その夜、
言葉と抱擁と、共有された沈黙が、
“すべては直せない”という事実を
彼に思い出させた。
そして――
ルシアンが旅立つ日の夜明け。
エルフたちは、
母なる樹の外側の根の周囲に、
小さな、慎ましい火を灯した。
静かに動き、
目覚めさせるのを恐れるかのように。
淡い果実と、
マナを含んだ水を分け合い、
問いも、要求もなく、
一行を休ませた。
それは歓待ではない。
承認だった。
ルシアンは長く眠らず、
生きた根にもたれ、
背中越しに感じる
再生した森の、
かすかな鼓動に耳を澄ませていた。
夜明け前、
グリセラが護衛なしで現れた。
手にしていたのは、
銀色の葉で包まれ、
固まった樹液で封じられた小包。
贈り物ではない。
儀式のように差し出された。
「……樹は、果実を実らせなかった」
彼女は静かに言う。
「だが……
腐敗以降、初めて――
“種”を生んだ」
中には、
黒く滑らかな種があった。
触れると、わずかに温かい。
力も、約束も、感じない。
小さく、脆く――
そして、確かに“存在していた”。
ルシアンがそれを手に取ると、
森が一瞬、息を潜めた。
「ここでは育たない」
グリセラは続ける。
「今でもない。
……もしかしたら、永遠に」
「だが……
存在している。
それで、十分だ」
ルシアンは頷き、
何も言わずに種をしまった。
安堵はなかった。
希望もなかった。
ただ――
理解した。
何かを救っても、
それは決して、
元の形には戻らないのだと。




