血を流す樹(エル・アルボル・ケ・サングラ)
空気は――
もはや、生きているとは感じられなかった。
根は、血管のように脈打ってはいない。
内側から“何か”が破ろうとしているかのように、痙攣していた。
母なる樹は、本来マナを浄化する存在だった。
源であり、心臓であり、
大陸すべての肺だった。
だが、今は――
内側から、腐っていた。
腐臭と金属の混じった匂いが、空地に漂う。
上部の葉は黒と赤に染まり、
悪魔のルーンが螺旋を描いて幹を這っている。
まるで、印を刻む虫の群れのように。
その中心――
血を流す樹皮にもたれかかるようにして、存在していたのは。
ブラーゴズ。
悪魔は幹に半ば埋もれていた。
母なる樹が彼を喰らおうとし、
同時に、彼が樹を喰らっているかのように。
その歪んだ共生こそが――
何よりも恐ろしかった。
グリセラが、荒い息を吐く。
「こいつが……原因……」
恐怖に掠れた声で囁く。
「こいつが……私たちを追い出した。
母なる樹を……こんな姿に……」
胸を締めつけられるような感覚の中で、
エミリーは理解してしまった。
「……樹は、あれほどの闇のマナを抱えきれなかった」
静かに言う。
「エルフを拒んだんじゃない……
守ろうとしていたの」
グリセラは拳を握り締めた。
死、流浪、混乱――
すべてを思い出して、眩暈がする。
「なのに……
私たちは、森に裏切られたと思った……」
瞳に涙が滲む。
「全部……あいつのせい……
あいつが……!」
悪魔を指差し、叫ぶ。
ブラーゴズは、幹と融合したまま笑った。
「私を責めるのか……
私はただ、樹を“進化”させただけだ」
低く、愉悦に満ちた声。
「森には、王が必要だ。
そして――この森には、もういる」
根が、飢えた蛇のように蠢いた。
ルシアンは、赤いルーンの螺旋を見つめていた。
それは――
知っているものだった。
「止めなければ」
いつになく重い声で言う。
「母なる樹は、マナを浄化しなくなる」
グリセラが困惑して彼を見る。
ルシアンは続けた。
「自然マナの代わりに、魔界マナを吸い始める。
ここに生きるすべて――
動物も、植物も……
お前たち自身も、根元から腐る」
エミリーが息を呑む。
「……時間は?」
ルシアンは、黒く染まった樹冠を見上げた。
「数時間。
下手をすれば……それ以下だ」
氷のような沈黙が落ちた。
その時だった。
本来なら美しく、温厚なはずの水晶鹿が、
木々の間から姿を現す。
――だが、眼は完全に黒かった。
次の瞬間、エルフに襲いかかる。
歪んだ身体。
深紅の煙を吐く呼吸。
エリザベスが深く息を吸う。
「……始まっている。
腐食は、もう拡がっているわ」
ブラーゴズが母なる樹と繋がっている限り、
一分ごとに、また一体が悪魔へ堕ちる。
そして、悪魔が増えれば――
さらなる怪物を呼び寄せる。
悪循環。
悪魔を倒さねば、止められない連鎖。
怪物たちが、
生きた洪水のように押し寄せ始めた。
グリセラが叫ぶ。
「陣を組め!!
幹を守れ!!
これ以上、近づけるな!!」
エルフたちは必死に戦った。
守っているのは土地ではない。
魂だった。
サンダーが突進し、雷で群れを吹き飛ばす。
エリザベスが部分結界を展開。
ダヤナは闇の中で喉を裂き、姿すら曖昧。
エミリーは光の場を維持しながら叫ぶ。
「腐食を……完成させないで!!」
その中心で――
ブラーゴズは、さらに母なる樹の樹液を吸い上げていた。
幹が軋む。
血を流す。
泣いているかのように。
ルシアンは歯を食いしばる。
「……間に合いつつある」
低く言う。
「母なる樹を……
《地獄樹》へ変えようとしている」
グリセラの顔が凍りつく。
「地獄樹……?」
ルシアンは容赦なく答えた。
「呼吸するものすべてを腐らせる。
森を……
永遠の悪魔の巣に変える存在だ」
グリセラは一歩退いた。
雪のように、顔が白い。
「……じゃあ、もし完成したら……」
ルシアンは、頷いた。
「エルフの森は消える。
お前たちも、だ」
ブラーゴズは黒い樹液に塗れた腕を、幹から引き抜いた。
「もうすぐ終わる」
愉快そうに言う。
「その後、“森”など存在しない。
あるのは……私の領域だけだ」
ルシアンが剣を掲げる。
背後で、エミリーが光を放つ。
エリザベスは震えながらも立つ。
ダヤナは血に舌なめずりをし、
サンダーは雷の蹄で大地を裂く。
グリセラが弓を上げ、
エルフたちが構えた。
そして――
ルシアンは、低く囁いた。
「殺すぞ。
でなければ……
お前たちの知る世界は、ここで終わる」




