獣の後に残る、敵意(トラス・ラ・ベスティア、ラ・オスティリダ)
セルヴス・アルファの死後に訪れた沈黙は……
わずか、二度の鼓動分だった。
そして――本能が、支配した。
チン――
チン――
チン――
三十を超えるエルフの弓が、一斉に引き絞られる。
数十の光る矢尻が、ルシアンの一行の心臓を正確に狙った。
ダヤナが牙を剥き、低く唸る。
エリザベスは反射的に、闇のマナの盾を展開。
サンダーは雷を迸らせながら地を踏み鳴らし、いつでも粉砕できる構え。
そして――ルシアンは。
……ただ、剣を掲げた。
刃から溢れる影に、数人のエルフが思わず後ずさる。
グリセラが前に出た。
弓は下ろさない。
「これ以上、一歩も進むな」
疲労で指を震わせながらも、声は揺れなかった。
「人間……剣を捨てろ」
ルシアンは眉を上げる。
「断る」
「剣を。捨てろ」
恐怖と誇りが混じった声。
傷ついたエルフだけが持つ、あの響きだった。
頭上で枝が軋み、張り詰める。
高まるマナに応じ、森そのものが血を望んでいるかのようだ。
エリザベスが低く呟く。
「ルシアン……囲まれるわ」
ダヤナがくすりと笑う。
「長くは囲まれないわよ。
首を折るの、結構早いし」
「黙れ」
ルシアンは振り向きもせずに唸った。
緊張は、さらに一段階上がった。
堪えきれなかったエルフが叫ぶ。
「人間が悪魔を森に連れてきた!」
「穢れている!」
「血の枯戦争の時と同じだ!
どうせ裏切る!」
今度は、矢先がエリザベスへ向けられた。
彼女は息を呑み――
久しくなかったことだが、視線を伏せた。
挑発されれば、どれほど恐ろしい魔法を振るえるか。
それを、今は見せたくなかった。
空気が、重くなる。
森が、息を止めているかのようだった。
もう一動作……
もう一言……
そうなれば、虐殺だった。
その一歩を踏み出したのは――エミリーだった。
文字通り。
彼女は矢と仲間の間に立ち、両手を広げる。
淡く輝く光は、悲しげな月のよう。
「武器を下ろして!!」
思いがけない威厳を帯びた声が、森に響いた。
――森が、聞き入れたかのようだった。
エルフたちが、ためらう。
エミリーの光は攻撃的ではない。
癒し、包み、血を止める光だった。
「私たちは敵じゃない」
早鐘の心臓を押さえ、息を詰めながら続ける。
「悪魔ブラーゴズが、森を蝕んでいる。
私たちも襲われた。
母なる樹へ向かい、止めようとしているの!」
グリセラが目を細める。
「人間の言葉を、信じろと?」
毒を含んだ声。
「それとも……あれの?」
ダヤナを指差した。
吸血鬼は挑発的に笑い、
何人喰らえるか計算するような目でエルフを見た。
エミリーは、動かなかった。
「好き嫌いは関係ない……
私たちには、共通の敵がいる」
「人間は信用しない」
別のエルフが吐き捨てる。
「ルシアンも、あなたたちを信用してなかった」
エミリーは震えながらも、言い切った。
「それでも……助けた」
全員の視線が、ルシアンへ向いた。
彼は眉をひそめただけだ。
「お前たちが通り道にいただけだ」
ぶっきらぼうに言う。
「俺は、あいつを泣かせたくなかっただけだ」
エミリーが赤くなる。
エルフたちは完全には理解できなかったが――
あの男が、単純な存在ではないことは分かった。
緊張は、なお空気に張り付いている。
小さなミスで、戦火は再燃する。
その時、ルシアンが口を開いた。
剣よりも鋭い、静かな声で。
「勘違いするな。
俺が本気で殺す気なら……
お前たちは、もう死んでいる」
数本の矢が、震えた。
グリセラは歯を食いしばる。
「私たちが本気なら……」
彼女は言い返す。
「あなたは、とっくに蜂の巣よ」
ルシアンは、薄く笑った。
不気味なほどに。
「だろうな……
だが、お前たちはやらなかった。
獣に踏み潰されていた時にな」
沈黙。
そして、エルフたちの間に広がるざわめき。
痛み。
傷ついた誇り。
――そして、敬意。
グリセラは弓を下ろした。
ほんの、指一本分。
「なぜ……母なる樹へ行きたい?」
エミリーが息を吸う。
エリザベスが背筋を伸ばす。
ダヤナは腕を組む。
サンダーが雷の鬣を揺らす。
ルシアンは答えた。
「ブラーゴズが、そこを蝕んでいる。
止めなければ……
この森は死ぬ。
そして、お前たちもだ」
沈黙。
重い沈黙。
運命を変える類のもの。
グリセラは、弓を完全に下ろした。
戦士たちは迷いながらも、従う。
「あなたたちを信じてはいない」
率直に言う。
「でも……今見たものは信じる。
もし本当に、ブラーゴズがすべての元凶なら……」
一瞬、声が震えた。
「……私たちは、力を集めなければならない」
エミリーは、溜め込んでいた息を吐いた。
矢が下ろされる。
ルシアンが剣を下げる。
ダヤナの指が爪の形を解く。
エリザベスの闇が薄れる。
そこに生まれかけた内戦は――
一本の光の糸によって、かろうじて消えた。
エミリーが、震える声で言う。
「……じゃあ、一緒に行きましょう」
グリセラは手を差し出した。
友情ではない。
生き残るための契約。
「母なる樹のために……
そして、両種族を脅かす悪魔に抗うために」
ルシアンは、その手を見つめ――
初めて、傲慢さを宿さない目で頷いた。
「母なる樹のために」
手が、重なった。
それは同盟ではない。
平和でもない。
必要に迫られた停戦――
そして、
さらに大きな争いへと至る、最初の一歩だった。




