公爵が恐れるもの(こうしゃくがおそれるもの)
王都の宮廷では――
「闇の神殿が、次々と消えている……誰の仕業だ?」
「ダグラス公爵です、陛下。あの後継者が」
「……あの子供が?」
「いいえ、殿下。
――もはや、子供ではありません」
修道院では――
「彼のために祈れ。
天のみぞ知るほどの闇を、あの者は背負っている」
村々では――
「公爵が通るときは、目を合わせるな。
怒りでできているらしいぞ」
軍の報告書には、淡々と記されていた。
『過去十二か月で、
悪魔教団の拠点四十三か所を殲滅』
太陽の巡りでもなく。
雨でもなく。
季節の移ろいでもない。
消えていく“敵の数”によって、
人々は時の流れを知った。
北の復讐者の噂。
夜に影が動くたび、
悪魔教団を襲う恐怖。
淡い月光が、
アクロポリスにある公爵宮殿の寝室の窓から差し込んでいた。
外では、
一年にわたる血と噂の後――
「教団狩りの公爵」の物語に包まれながら、
街は眠っている。
部屋には、
まだ熱を帯びた肌と、燃え尽きた欲情の匂いが残っていた。
揺れる蝋燭の光が、
乱れたシーツの皺と、
二人の肌に残る汗を照らしている。
ルシアンは、
大きな寝台の背にもたれ、深く息をついていた。
黒髪は乱れたまま。
エミリーはその隣に横たわり、
片脚を彼に絡め、
頬を彼の胸に預けている。
まだ落ち着かない、
不規則な鼓動を聞きながら。
彼女の指が、
彼の胸骨に、静かな円を描く。
言葉はなかった。
必要もなかった。
ルシアンは目を閉じる。
彼女の体温が、
ほんのわずか、彼を鎮めてくれる。
「……ルシアン」
やがて、
震える声が沈黙を破った。
「話が、あるの」
彼は答えなかった。
だが、指先が僅かに強張る。
エミリーは唾を飲み込んだ。
怖かった。
自分のためではない。
彼のために。
「この一年……ずっと、見てきたわ」
「毎日、少しずつ……あなたは自分を削ってる」
囁くような声。
「休まず、眠らず、
一息つくこともなく、教団を狩り続けて……
このままじゃ、壊れてしまう」
若き公爵は沈黙したまま。
視線は天井に固定されている。
そこに、
彼にしか見えない“何か”があるかのように。
エミリーは、さらに柔らかく続けた。
「彼らが許されない存在だってことは分かってる。
怪物よ。
してきたことも……しようとしていることも……」
一度、深く息を吸う。
「でも、止まって。
ほんの一瞬でいいから。
このままじゃ……
何か、取り返しのつかないことが起きる」
ルシアンは、ゆっくりと目を閉じた。
彼女は、分かっていない。
誰も、分かっていない。
彼が狩っているのは、復讐のためじゃない。
憎しみのためでも。
正義のためでもない。
――恐怖だ。
魂を蝕むほど、深い恐怖。
悪魔教団。
魔王。
彼だけが知る予言。
エリザベスが“器”として捧げられる未来。
その想像だけで、
血が凍りついた。
「……エミリー」
声が、わずかに砕ける。
「止まれない。
今は……まだ」
エミリーは、少し身を起こし、
彼を真っ直ぐ見つめた。
「どうして?
何が、あなたをそこまで駆り立てるの?
何を……一人で抱えてるの?」
ルシアンは、すぐに答えなかった。
沈黙が続き、
彼女の腹に、不安が重く沈む。
やがて、低い声が落ちた。
「……一人でも生かしてしまったら」
「……許されないことが、起こるかもしれない」
「許されないこと……って?」
言えなかった。
エリザベスを失う未来を恐れていることも。
誰も知らない“先”を知っていることも。
教団の目的が、ただ一つだということも。
――そして、
その“目的”が、
愛する女性の名を持つことも。
だから、彼はただ呟いた。
「……とても、酷いことだ」
エミリーは、長く彼を見つめた。
恐怖と――
それでも消えない、真心を宿して。
そっと、彼の指に触れる。
「……ルシアン。
明日、私……帝国へ向かうわ」
ルシアンの体が、即座に強張った。
「……何だって?」
エミリーは視線を落とす。
「神々からの召集よ。
向こうの状況は……臨界だって。
魔物が異常進化して、
結界が次々と崩れている」
一拍置いて、続けた。
「帝国は、支援なしでは持たない。
王国にも、援軍要請が来ている」
そして――
「……遠征軍の指揮官に、
エリザベス王女が任命されたわ」
ルシアンの心臓が、
危険なほど強く脈打った。
「……エリザベス、が?」
震えを隠しながら、問い返す。
「神殿の要請よ」
「理由は……分からないけど」
その瞬間、
ルシアンの瞳から、
一瞬だけ――“光”が消えた。
神々は、
エリザベスを公爵領から遠ざけようとしていた。
彼の手の届かない場所へ。
混沌の中へ。
――容易には、守れない場所へ。
エミリーは彼の沈黙を、
自分への心配だと勘違いし、
そっと彼の手を強く握った。
「……分かってる。危険だって思ってるんでしょう」
「一緒に来るべきだって……」
一瞬、間を置いてから、
彼女は真剣な声で言った。
「でも、ルシアン……お願い。
一つだけ、約束して」
ルシアンは、
深い影の中から、ほんのわずか彼女を見た。
エミリーは、
持てるすべての強さで、言葉を放つ。
「この戦いの中で……
自分自身を見失わないで」
「もう、誰だか分からない存在にならないでほしいの」
彼は、ゆっくりと息を吸った。
約束できることなら、いくらでもあった。
だが――それだけは。
もし、神々がエリザベスを求めるのなら。
もし、教団が彼女に触れようとするのなら。
彼は――
帝国そのものを、滅ぼすことさえ厭わない。
だから、
言える唯一の言葉を選んだ。
「……約束、する」
囁くような声。
エミリーは、
どこか悲しげに微笑んだ。
「欲しかった約束じゃないけど……
それでも、受け取るわ」
彼女は彼の胸に頭を預けた。
強く。
痛いほどに。
燃えるような鼓動。
それが何を意味するのか、
彼女には分からなかった。
その夜――
愛でさえ、
ルシアンの恐怖を消すことはできなかった。
エミリーは、
彼の胸の上で眠りについた。
穏やかで、無防備で、信じきった呼吸。
だが彼は――
目を閉じることができなかった。
部屋の静寂が、
重すぎた。
自分の心臓が、
胸を突き破ろうとしているかのように、
激しく打ち続けていた。
ルシアンは、
彼女を起こさぬよう慎重に手を抜き、
静かに立ち上がる。
空気が欲しかった。
考える時間が必要だった。
そして――
彼女に、会わなければならなかった。
薄暗い公爵宮殿の回廊を進む。
導くのは、
逃れられない予感だけ。
休息など、許されない。
今夜は、特に。
夜は街を完全に覆い、
王宮へ忍び込むには最適だった。
エリザベスが滞在する部屋の前に立ったとき、
一瞬――立ち去ろうと考えた。
だが。
扉の向こうから、
彼女の声が聞こえた。
柔らかく、
不安を含んだ声。
まるで――
彼がそこにいることを、知っているかのように。
「……ルシアン?
そこにいるの?」
その一言で、
恐怖も、罪悪感も、
隠してきたすべてが――
一瞬で崩れ落ちた。
エリザベスは、
ベッドの縁に腰掛けていた。
乱れた髪。
僅かに上気した肌。
先ほどまでの、
親密な時間の余韻が、
まだ部屋に残っている。
ルシアンは、
開いた窓にもたれ、立ったまま。
月光が彼の体を照らし、
内に抱えた影を、
暴き出そうとしているかのようだった。
エリザベスは彼を見つめ、
不安げに言う。
「……ルシアン。
また、その目ね」
「あなたの魂……
休み方を忘れてしまったみたい」
彼は、すぐには答えなかった。
銀色の光が、
張り詰めた肩の線、
積み重なった疲労――
そして、
彼女には理解できない“何か”を浮かび上がらせる。
エリザベスは立ち上がり、
後ろから彼を抱きしめた。
腰に腕を回し、
額を彼の背に預ける。
「ずっと、教団を狩り続けてる……」
「ほとんど眠らないし、
ほとんど食べない」
小さく、震える声。
「……怖いの。
あなたが、あなたでなくなってしまうんじゃないかって」
ルシアンは目を閉じた。
喉が、
言えない真実で焼ける。
――君を失うことの方が、
ずっと怖い。
「失ってない」
彼は低く言った。
「……準備してるだけだ」
エリザベスは彼を振り向かせ、
正面から見つめる。
優しさと、強さと、
不安が混じった青い瞳。
それはいつも、
彼の防御を壊した。
「……何のための、準備?」
言葉が、
喉を焼いた。
抑え込んできた怒り。
決して口にしない恐怖。
彼は思い出す。
“ゲーム”で見た未来。
エルヴィン・レノックスだけが知る結末。
悪魔教団。
魔王。
――器として捧げられる、エリザベス。
吐き気がした。
彼女を失う想像が、
息を奪う。
「……君を守るためだ」
ようやく、言った。
低く、掠れた声で。
「教団から。
……すべてから」
エリザベスは、
わずかに眉を寄せる。
「悪魔教団……?」
「確かに戦争中だけど……
世界全部を、背負わなくていいのよ」
胸に、
刃を突き立てられたようだった。
――彼女は、知らない。
――知ってはいけない。
ルシアンは歯を食いしばる。
血管を流れる魔力が、
感情に反応して燃え上がる。
「違う」
その声の強さに、
彼女は半歩、後ずさった。
「……俺から離れたら、
君は“無事”じゃいられない」
エリザベスは目を見開く。
「ルシアン……?
何を言って――」
彼は一歩踏み出し、
両手で彼女の顔を包んだ。
まるで、
世界そのものが彼女を奪うのを
恐れているかのように。
「君は、帝国へ行く」
冷静すぎる声。
「神々の要請だ。
王国は受け入れた」
エリザベスは視線を落とす。
「……ええ。
今日、女王が決めたわ」
「出発は、一週間後」
彼は、
彼女の顎を上げ、
再び目を合わせさせる。
「……俺も行く」
彼女は瞬いた。
「え……?
ルシアン、あなたが来なくても――」
「必要なんだ」
遮るように。
だが、その奥で、声は壊れかけていた。
「君を一人にはしない」
「誰にも……何にも……
指一本、触れさせない」
エリザベスの胸が、
きゅっと締め付けられる。
そこにあるのは、愛。
だが同時に――
理解できないほど暗い、
必死な執着。
「……ルシアン」
「私を失うのが怖くて、
自分を縛ってほしくない」
「怖れじゃない」
嘘だった。
彼は声を落とす。
「……怖れなら、
まだ楽だった」
彼女は彼を抱きしめた。
彼が――
震えていることに、気づいた。
ありえない。
ルシアンが、震えるなど。
「一緒に行く」
それは誓いだった。
同時に――
世界への宣告でもあった。
「君が行く場所なら、どこへでも」
「帝国に、怪物がいようと」
「教団がいようと」
「……神々が、君を傷つけようと」
彼は、強く彼女を抱きしめた。
「祈るといい」
「……誰一人生かす気はない」
エリザベスは彼の胸に頭を預け、
速すぎる鼓動を聞いた。
愛する人が、
何か別のものへと
鍛え上げられていく感覚。
それでも、
その腕は優しく――
壊れそうなほど、必死だった。
誰にも見えない、
危険な混合物。
「……じゃあ」
彼女は囁き、
彼の唇に触れた。
「一緒に、旅をしましょう」
ルシアンは彼女に口づけた。
それは、
これまでとは違う。
唯一の光を失うことを恐れる者の、
切迫した口づけ。
決断は、下された。
――もはや、
神々でさえ、
彼を止めることはできなかった。




