月の誓約(つきのせいやく)
黄昏が、公爵領の城壁を包み込んでいた。
空にはまだ、輝く亀裂が残り、すべてを破壊した戦いの痕跡を映し出している。
ルシアンは、母の墓を囲む庭園を、重い足取りで歩いていた。
視線は遠くに向けられたまま、記憶と誓いの狭間に沈んでいる。
静かに、足音も立てず、
エリザベスが石の回廊を進んできた。
いつもは揺るがぬ柱のようだった彼の姿。
だが今は違う。
喪に押し曲げられ、
疲労の影を肌にまとったその背中を見た瞬間、
彼女の胸が、きしりと音を立てた。
「ルシアン……」
わずかに震える声。
「お城中、探していたのよ……」
彼が顔を上げる。
その瞬間――
新たな“恐怖”が、胸の奥で目を覚ました。
エリザベス。
彼に残された、ただ一人。
失うことを、決して許されない存在。
――もう一つの人生の断片が、脳裏をよぎる。
――悪魔教団。
――魔王。
――器として求められた、“完璧な肉体”。
彼女が、捕らえられ、
侵され、
内側から壊される光景が――
全身を震わせた。
そして、怒りが煮え立つ。
「エリザベス……」
声は掠れ、砕け、
言葉にならない恐怖を孕んでいた。
「……もし、もし君を失ったら……
俺が、どうなるか……分からない……」
彼女は、困ったように眉をひそめ、
その苦しみを理解できぬまま、
そっと彼の手を取った。
「失う……?」
「ルシアン、愛しい人……大丈夫よ。
何も起きない。全部、うまくいくわ」
だが――
違う。
何も、良くなどなかった。
ルシアンは目を閉じ、
呼吸を押し殺す。
母はもういない。
この世界から、あまりにも残酷な形で奪われた。
――次は、エリザベスか?
――また、守れなかったら?
……否。
二度と。
息が続く限り、決して。
筋肉が強張り、
胸を、暗い奔流が駆け抜ける。
彼は彼女を、強く抱きしめた。
それは、縋るようで、
ほとんど絶望に近い力だった。
彼女の首元に顔を埋めながら、
炎のような誓いが、心に刻まれる。
――誰かが……
――君に触れようとするなら……
――傷つけるなら……
すべて、滅ぼす。
教団の穢れも、
その化け物どもも、
一人残らず。
誰にも……
誰にも、触れさせない。
エリザベス――。
やがて、声がこぼれ落ちた。
それは恐怖ではない。
鋼のように鍛え上げられた、決意だった。
「……君に、何も起こさせない」
言葉の重さを、彼女はすべて理解してはいない。
それでも、彼女は額を寄せ、
信じるように、やさしく微笑んだ。
「ルシアン……
何があっても、私はあなたと一緒よ。
誰にも、引き離せないわ」
彼は、その瞳を見つめた。
そこには、
この世界に彼を繋ぎ止める“錨”があった。
――奪わせない。
――決して。
その瞬間、
彼の心は、剣の刃のように明確な誓いを刻む。
守る。
あるいは――
彼女を傷つけようとしたすべてを、道連れにして死ぬ。
彼女の静けさは、彼の外側を鎮めていた。
だが内側では、
暗く、広大な何かが、なお成長を続けている。
深い炎。
底なしの憎悪。
この深淵へと彼を突き落とした者たちへ。
そして――
再び、それを繰り返そうとする者たちへ。
「……いつも……
私は、あなたのところに戻るわ」
無邪気な微笑み。
その“いつも”が、どれほど重いかも知らずに。
ルシアンは、彼女を胸に抱き寄せた。
それは、言葉を超えた封印。
――悪魔教団にも、
――神々にも、
彼女には、指一本触れさせない。
決して。
その決意は、
恐怖よりも強く、
運命よりも重く、
死そのものよりも、深く――
彼の魂に刻まれた。
――その日、月は目撃した。
いかなる神も、立ち会うことを恐れた瞬間を。
教団を滅ぼす災厄の誕生を。




