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「灰と誓い」

ルシアンが公国へ辿り着き、そして――目を開いた瞬間。


彼の世界は、音を立てて崩れ落ちた。


瓦礫の山の合間には、ロード級、マギステル級の兵士たちの亡骸が無数に横たわっていた。

騎士たちは倒れ、主を失った魔獣の隣で息絶えている。

中には、かろうじて呼吸だけを続けている獣もいた。


裂けた山々。

引き裂かれた大地。

空には、次元の裂け目が幾筋も走っている。


「……そんな……」


ルシアンの呟きは、無力さに引き裂かれ、かすれた音となって零れ落ちた。


エミリーは思わず口元を覆った。

背筋を凍らせるほどの惨状に、恐怖が全身を駆け抜ける。


「ルシアン……」


その声は震え、瞳には深い絶望が宿っていた。


生まれて初めて、ルシアンは“どうにもならない”という感情を知った。

この戦場の規模は、彼を悪魔の渦の前の小さな蟻にまで引き下げていた。


サンダーが鼻先で彼を押し、動くよう促す。

エミリーと並び、ルシアンは馬から降り、ようやく動ける範囲まで戦場の中心から離れた。


その瞬間――

サンダーが固有能力を解放する。


《天翔奔走 ―― 致命放電》


サンダーが駆けるたび、空気が弾け、雷光が走る。

触れたもの、近づいたものすべてが激しい電撃を浴び、

下位の魔物はもちろん、高位の存在でさえ痙攣しながら崩れ落ちていった。


ウンバー――闇狼もまた、能力を発動する。

その爪はマナの刃となって空を裂き、

牙は敵の肉と骨を容赦なく噛み砕く。


瓦礫の中に響き渡る咆哮は、

まるで戦場のマナそのものが彼の怒りに呼応しているかのようだった。


サンダーが荒々しく嘶く。

ウンバーが魂を引き裂くような遠吠えを放つ。


本能のままに――

二体は、戦場の中心に立つ一人の女性へと駆け出した。


混沌の中で、なお揺るがず立ち続ける存在。

意志の灯台のように、そこに在り続ける――ソフィアのもとへ。


ルシアンは、ほとんど我を失ったまま前へ進んだ。

涙は止まらず、頬を伝って落ちる。

久しく感じていなかった無力感と、

それでも折れぬ決意が、胸を締めつける。


エミリーは彼の隣を走りながら、

初めて見るルシアンの姿に、自分自身を重ねていた。

――守るべきものを前にした者の、あの感情を。


やがて、サンダーとウンバーはソフィアの傍へ辿り着く。


公爵夫人は、かろうじて立っている状態だった。

鎧は引き裂かれ、腕からは血が止まらず流れ落ち、

槍は疲労そのもののように震えている。


それでも、その瞳の炎は消えていなかった。

決して屈しない者の光が、そこにあった。


深い傷に覆われたラリエットが、空気を震わせる咆哮を放つ。

振り下ろされた爪が衝撃波となり、大地が悲鳴を上げる。


悪魔――

虚無と闇が絡み合った、形なき存在が、よろめいた。


周囲の空間が歪み、現実そのものが軋む。

その力の核心が、今にも砕けそうに震えていた。


三体の魔獣が、同時に襲いかかる。


サンダーは雷そのものとなって天から落ち、

大地を震わせる轟音とともに空を切り裂く。


ウンバーは宙を舞い、

闇のマナを纏った顎を大きく開く。

その周囲の光さえ、吸い込まれるかのように。


ラリエットは、己の全存在を込めた咆哮を放った。

山々すら震わせ、世界の骨にまで響く一撃。


悪魔は、三者の力の前に耐えきれなかった。


その形は崩れ、

亀裂から冷たく異質な光が漏れ出し――


そして。


爆散した。


解放されたエネルギーが闇を裂き、

空気そのものが燃えるように輝く。

大地は激しく揺れ、終焉の衝撃が広がった。


崩れ落ちる寸前のラリエットが跳び、

ソフィアの前に立ちはだかる。


衝撃は彼を数十メートル吹き飛ばし、

血と砂塵の中を転がした。


余波はソフィアにも届く。

足元の地面が砕け――

彼女は、片膝をついた。


サンダーとウンバーが震えながら彼女を囲む。

もはや守れる力は残っていなくとも、

それでも、離れようとはしなかった。


その瞬間――

ルシアンが辿り着いた。


煙る瓦礫の中を駆け抜け、

涙に気づくこともなく、転びながら前へ。


エミリーも追いつき、

息を切らし、顔も衣服も灰にまみれていた。


母の姿を見た瞬間――

ルシアンの世界は、再び止まった。


「……母さん……」


震える声は、かろうじて音を成しただけだった。


ソフィアは顔を上げ――

微笑んだ。


穏やかで、優しい笑み。

長年の愛と恐れ、そして安堵を包み込んだ、母の微笑み。


「ルシアン……」


ルシアンは崩れ落ちるように膝をつき、

必死にその手を掴む。

まるで、それが世界を繋ぎ止める唯一のものかのように。


「エミリーが……助けられる……彼女なら……」


声は震え、瓦礫と煙に消えそうだった。


エミリーは急いで駆け寄り、

神聖な光を解き放つ。

小さな太陽のように輝く手から、

癒しと浄化の魔法が流れ出す。


――だが。


ソフィアに触れた瞬間、

その光は消えた。


空気に溶け、

何かに吸い込まれるように――跡形もなく。


「……そんな……」


エミリーの声が、恐怖に震える。


「魂が……傷ついている……。

なにかが……内側から……食い尽くしている……」


ルシアンの肺から、空気が抜け落ちた。

心臓が暴れ、胸を破りそうになる。


「母さん……お願いだ……行かないで……」


ソフィアは、震える手を持ち上げ――

幼い頃と同じように、そっと彼の頬をつねった。


「……私の小さな子……

こんなに大きくなって……」


その声は、温かく、愛に満ち、どこか儚い。


ルシアンは手を強く握りしめる。


「いやだ……置いていかないで……

母さんがいないと……」


嗚咽が、言葉を壊した。


ソフィアの瞳は、すべてを照らすような静けさを湛えていた。

瓦礫の中の、優しき灯台。


「前に進みなさい、ルシアン……」

囁くように告げる。

「私はもう……一緒には行けない……

でも、あなたは……生きて。

私のために……幸せになって……」


サンダーは頭を垂らし、震えた。

ウンバーは、魂を裂くような哀悼の遠吠えを上げる。


エミリーは膝をつき、

抑えきれぬ涙を流しながら、

腕の中で消えていくソフィアの光を抱きしめた。


その後に訪れた沈黙は――

完全だった。


重く、冷たく、

一つ一つの石と、空気の隙間にまで染み渡る虚無。


遠くで、ラリエットは立ち上がろうとした。

その黄金の瞳は、痛みによって燃え上がるような凶光を宿していた。

彼は見た――

自らの主を。

自分を育ててくれた、あの女性を。


そして――

空を二つに引き裂くかのような、あまりにも悲痛な咆哮を放った。


ソフィアは、息子の方へと身を傾けた。

それは、慈しみと覚悟に満ちた仕草。

最後の力を振り絞った、別れの瞬間だった。


「……愛しているわ……私の子……」


長年胸に抱き続けてきた想いをすべて込めた、かすれた囁き。


その手から、力が抜ける。

ゆっくりと、指が落ち――

ソフィア・ダグラス・ド・モンドリングの胸は、二度と動くことはなかった。


ルシアンは彼女を強く抱きしめた。

まるで、そうすれば消えてしまうのを止められるかのように。


最初は、叫ばなかった。

言葉もなかった。

ただ、砕けるように――痛みに呑み込まれていった。


やがて――

抑えきれぬ咆哮が、爆発した。


戦場全体を貫き、

兵士と魔獣の魂を揺さぶり、

サンダーとウンバーまでもが、同じほどに痛ましい悲鳴で応えた。


エミリーはその場に膝をつき、

顔を両手で覆い、止まらぬ涙に身を委ねた。


やがて、ダグラス軍がようやく戦場に到着する。

そこで彼らが目にしたのは――


灰の中に膝をつき、

生涯をかけて公国を守り続けた女性の、

冷たくなった亡骸を抱く、自らの公爵の姿だった。


そして――

その砕けた沈黙の中で。


ルシアンの内に、

本来の運命の流れには存在しなかった“何か”が、生まれた。


冷たいもの。

暗いもの。

絶対的なもの。


――誓い。


――戦争。


――新たな道。


そして、数メートル先で――

ラリエットもまた。


呼吸を止めた。


最後の震えとともに、胸は静まり返り、

かつて怒りと忠誠に満ちていた黄金の瞳は、

燃え尽きる炭のように、ゆっくりと光を失っていった。


彼の命は、主の命と繋がっていた。


ソフィアが倒れた時――

彼もまた、その後を追ったのだ。


風が止まった。


塵は空中で静止し、

戦場の音は、重たい幕を下ろされたかのように消え失せた。


残された魔物たちは、理解できぬまま後退した。

逃げ出す者もいれば、

悪魔の呪われたエネルギーが完全に消えた瞬間、

その場に崩れ落ちる者もいた。


次元の亀裂は、低く軋む音を立てながら自らを閉じ、

空はゆっくりと本来の色を取り戻していく。

――だが、どこか灰色で、虚ろだった。


サンダーは頭を垂れた。

電撃のような嗚咽がその身体を走り、

火花が液体の涙のように零れ落ちる。


ウンバーは天を仰ぎ、咆哮した。

それは獣の嘆きではない。

喪失、孤独、そして怒りを凝縮した叫びだった。


その声は、到着した兵士たちの心に深く突き刺さり、

次々と膝をつかせた。


エミリーは地面に崩れ落ち、

血に染まった手を支えに息をつく。

その瞳は腫れ、

神聖な光は不安定に揺れ、今にも砕けそうだった。


だが――

ルシアンは。


一切、音を発しなかった。


泣かなかった。

震えなかった。

数秒間、呼吸さえしていなかった。


ただ――

母が死んだ、その場所を見つめていた。


その瞳から、すべてが消えた。

水面から反射を失った湖のように。


いつも彼を包んでいた温かな輝きは、

誰も知らなかった静かな深淵に、完全に呑み込まれていた。


そして――

彼の中にあった何か。


脆く、

人間らしく、

若さを象徴するもの――


ソフィアと共に、死んだ。


サンダーが一歩、彼に近づく。

ウンバーもまた、静かに寄り添う。

――もう、何も元には戻らないと悟りながら。


集結した軍勢は、ルシアンの背後で立ち止まった。

誰も言葉を発さず、

誰一人、近づこうとしなかった。


なぜなら――

その沈黙の中で。

生まれたばかりの深淵の中で。


“何か”が、形を成し始めていたからだ。


やがて、世界が知ることになるもの。


避けられぬもの。


――運命そのものが。

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