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『世界を喰らう虚無』

公国が、どうにか持ちこたえ始めた――

そう誰もが感じた、その瞬間だった。


戦場を覆っていたのは、異様な沈黙。

ただ音が消えただけではない。

まるで――空気そのものが、呼吸をやめたかのような静止。


そして、“それ”は降りてきた。


地の裂け目からでもなく、

森の奥からでもなく、

既知のいかなる構造物からでもない。


――星雲。

公国の空に浮かび、静止したまま全てを見下ろしていた《星雲》の中から。


それは、堕ちかけの悪魔だった。

下位神の神性エネルギーを糧として、無理やりこの世界に顕現しつつある存在。


完全な肉体は持たない。

だが、その代わりに――

魔力重力の中心点が生まれていた。


生きた崩壊。

万物を吸い込む、マナの穴。


瞬時に、戦場は反応した。


マナが――

恐怖を覚える速度で、吸い取られていく。


防衛塔の魔術師たちは膝を突き、初歩術式すら維持できずに倒れ込む。

魔獣騎兵の獣たちは咆哮しながら後退し、全身を震わせた。

都市のマナ障壁は細かな悲鳴を上げ、薄氷のように砕け散る。


ロード級の技は霧散し、

マギステルの防御結界は破片となり、

戦争用アーティファクトは沈黙した。


――存在そのものが、吸われている。


太陽獅子ラリエットが、数歩後ずさった。

それは、初めて見せる――

明確な恐怖だった。


その虚無の中心から、彼は現れた。


悪魔。

世界の外側の炎を宿した眼。

周囲のマナ歪曲により、大地そのものがねじ曲がって見える。


ソフィアは、瞬き一つせずそれを見据えた。

槍を構え、アルファ・シンクロのオーラを全身に纏いながら。


「……なるほど」

その声は、刃のように空を裂く。

「これが……本命というわけね」


空が、燃えていた。

炎ではない。

暴走したマナだ。


光蛇のようにうねり、

現実そのものを締め上げる歪んだエネルギー。


大地の欠片が宙に浮かび、

変異した樹木が獣のように咆哮し、

河川は丸ごと煮え立っていた。


世界は、生きた混沌へと変貌していた。


誰もが理解する。

この敵は、戦術や数で倒せる存在ではない。


古く、

暗く、

そして――絶対的。


公国の首都は、もはや異界同士の戦場だった。


魔獣騎兵たちは死力を尽くす。

巨鳥が飛翔魔物と激突し、

マナの大蛇が下位悪魔を呑み込み、

レベル70〜80の魔猫・魔獣たちは、騎手を失っても戦い続ける。


ダグラスの魔術師たちは、広域殲滅術式を解き放ち、

数キロ単位の大地を焼き尽くす。

その一方で、ロード級戦士が

レベル85〜90の魔物に囲まれ、次々と倒れていく。


世界が、震えていた。

まるで――惑星そのものが悲鳴を上げているかのように。


だが、その中心にあるのは。


形なき悪魔。

生ける虚無。

次元的ブラックホール。


魔力、土、空気、光、生命――

すべてを喰らう存在。


その圧力はあまりに苛烈で、

百メートル圏内にいるだけで、マギステル級が崩れ落ちるほどだった。


――しかし。


限界は、確かに存在していた。


この不完全な顕現は、

存在するだけで自身の本質を削っている。


下位神の残滓と、

戦場から吸い上げるマナだけが支え。


時間が経つほど、安定性は失われていく。


数分。

たったそれだけ耐え切れれば――

この存在は、維持できない。


ソフィアは槍を強く握りしめた。

時間はない。


血に染まった身体。

裂けた鎧。

だが、その意志は燃え盛っていた。


隣で、ラリエットが咆哮する。

その一撃一撃が、

純粋な力で闇の触手を粉砕し、

まだ踏みとどまる兵と魔術師たちを守っていた。


これは、巨人同士の戦い。


一つの技、

一撃、

一つの衝撃波が――

命と時間を削る。


悪魔がソフィアのマナを吸い取ろうとするたび、

ラリエットの突撃が黒き流れを断ち切る。


木々は宙を舞い、

河は沸騰し、

それでも――

公爵夫人は前へ進む。


技を繋ぎ、

隙を与えず、

一瞬も止まらない。


一秒が、命。

一分が、数百の犠牲。


村人が、

兵が、

魔術師が――

次々と消えていく。


ソフィアは悟った。

勝利は、力ではない。


精度と速度。


すべての技を完璧に。

すべての命令を、ラリエットの動きと完全同期させる。


それは、死の舞踏。

力と絶望が交錯する、

一秒のミスが即死につながる、

究極の戦場の舞。


それでも――

彼女は、退かなかった。


攻撃するたび、

防ぐたび、

悪魔の寿命は削れていく。


存在は有限。

勝利は、不確定。


だが――可能性は、確かにあった。


ソフィアとラリエットが耐え続ける限り。

一秒一秒を、力の限り繋ぐ限り。


悪魔は――

封じられる。

あるいは……討たれる。


その時。


悪魔は悟った。

時間が、尽きつつあることを。


不完全なその姿が、

凝縮された闇のマナで輝き始める。


虚無の中心から、

破滅の波動が解き放たれた。


マナに汚染された炎で樹木が爆ぜ、

岩と大地の欠片が数キロ先まで吹き飛ばされ、

大気そのものが怒りで震える。


すべてを粉砕し、

すべてを喰らい尽くすための一撃。


ラリエットとソフィアですら、

その直撃を受けた。


大地は揺れ、

虚無の圧力は、

もはや耐え難いほどに増大していく。


獅子は再び咆哮した。

それはこれまでで最も深く、最も獰猛な咆哮だった。

ラリエットは純粋な力を解放し、悪魔の猛攻を真正面から押し止める。


マナに燃え上がる槍を構えたソフィアは、ラリエットと力を完全に同調させた。

二人の力が重なり合い、即席の耐久障壁が形成される。

それは一分一分、悪魔の必死の攻撃に耐え続けていた。


ソフィアは踏みとどまった。

だが、その一秒一秒が命の代償だった。


悪魔の虚無の圧力が皮膚を引き裂き始め、歪んだマナが骨の奥まで焼き尽くすように侵食してくる。

呼吸するだけで激痛が走り、わずかな動きさえも巨人の試練のように重い。


ラリエットが再び吠える。

大地そのものを震わせるほどの力強い咆哮。

その音は魔獣たちの遠吠え、そして公国兵たちの悲鳴と混じり合った。


「――ラリエット! 退いて!」

疲労と痛みに引き裂かれた声で、ソフィアは叫んだ。


だが、ラリエットは従わない。


彼の忠誠は絶対だった。

ソフィアは主であり、群れの絆そのもの。

その爪は悪魔の攻撃を粉砕し、身体から放たれる純粋なマナは周囲の仲間を守る。

その瞳には、すべてを捧げる覚悟の怒りが宿っていた。


退くことなどできない。

ソフィアを、ひとりにはできない。


ラリエットの突進ひとつひとつが衝撃波となり、虚無を押し返し、マナを貪る飢えを逸らしていく。

咆哮、跳躍、爪撃――

そのすべてが、ソフィアが立ち続けるための希望だった。


「……まだ……ここで終わらせるわけには……!」

歯を食いしばり、ソフィアは呟く。

指の隙間から、時間が零れ落ちていくのを感じながら。

「耐えて、ラリエット……もう少し……!」


圧力に押し潰される直前、ひとつの光景が脳裏に浮かんだ。


幼いルシアンが、輝く瞳で空を指さし、英雄のような確信に満ちた声で言う。


『いつか、母さんと一緒にここを守るんだ』


その記憶が、ソフィアに力を与えた。

混沌の中で灯る、一筋の光。


ラリエットはソフィアの意志を感じ取った。

公国の基盤を揺るがすほどの咆哮とともに、彼は突撃する。


その一撃は凄絶だった。

どんな怪物でも粉砕するであろう爪の連撃が、悪魔に叩きつけられる。

だが、その一動作ごとに、ラリエットの力は確実に削られていく。


筋肉は焼けるように悲鳴を上げ、呼吸は限界まで追い詰められる。

それでも――彼は退かなかった。


自らの存在時間が限られていることを悟った悪魔は、攻撃を激化させる。

凝縮された純黒のマナが爆発し、破滅の津波となって二人に襲いかかった。


空気は固体のように重くなり、岩石が浮かび上がる。

歪んだ重力に引き裂かれ、宙でねじ曲がっていく。


ソフィアは歯を食いしばり、全力で槍を握り締めた。


「ラリエット! 防いで!」

叫ぶ。


獅子は咆哮とともに跳び出し、肉体とマナを重ねて衝撃を受け止めた。

衝撃波が周囲を薙ぎ払い、近くにいたダグラス兵たちが吹き飛ばされる。


だが、限界は確実に近づいていた。


悪魔が生み出した虚無は、もはや長くこの世界に留まれない。

攻撃するたび、吸収する魔法のたびに、この次元への楔は弱まっていく。


ソフィアは全身全霊で戦い、時間を稼ぐ。

ラリエットは超常の力で仲間を守り続ける。


空が、山が、街路が――

巨人同士の衝突に震え上がる。


公国を巡る戦いは、まだ始まったばかりだった。

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