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『空に積もるもの』

ダグラス公国に、異様な夜が訪れた。


本来なら波打ちながら輝くはずの星雲は、まるで見えない力に凍りつかされたかのように、空に貼り付いたまま動かない。


大気中のマナの脈動を読み取ることに慣れた防衛塔の魔術師たちは、困惑した表情で空を見上げた。

「星雲が……おかしい動きをしています」

マナクリスタルに触れた見習いが、指を震わせながら囁く。


「静かすぎる……」

別の魔術師が答えた。光が圧縮され、不吉な輝きへと変わっていくのを見つめながら。

それは静止ではなかった。

――抑え込まれているのだ。


誰かが星雲を“蓋”として使い、そのエネルギーを締め上げ、次元すら破壊しかねない爆発の瞬間を待っている。

周囲の森から、見張りたちが最初の異変を感知した。

「東に裂け目!」

「北にも!」

「三つ……四つ……六つだ!」

警告の声が次々と重なり、やがて悲鳴に変わる。

「多すぎる……!」


マナ紋様の刻まれた外套を翻した守備隊長は、即座に命令を下した。


『災厄級脅威確認。全市、最高警戒態勢へ。

マナの角笛を鳴らせ。戦士と調教士を叩き起こせ』


その二日行程先――深い森の奥、外界から隔絶された隠れた空き地では、ヘラルドたちと悪魔の同盟者が集結していた。

それは悪夢が具現化したかのような光景だった。下級悪魔から、星雲のマナに侵された歪な獣まで、大小さまざまな存在が同心円状にひしめき合っている。

彼らが一歩進むたび、大地には灼熱の痕が刻まれ、腐臭を帯びた黒いマナが体から溢れ出した。


悪魔の首魁が腕を掲げると、太古の咆哮が森を震わせた。

「聞け」

砕けた岩のように重い声が響く。

「公爵夫人は孤立していない。だが、その味方は分断されている。今、彼女の傍にいる守護者はラリエットのみ。サンダーとアンバーは若きダグラスを守っている。だが――ラリエット一人では、この大群を止められぬ」


神の紋章が刺繍された法衣に身を包んだヘラルドたちは、厳かにうなずいた。

「マナに飢え、散在する魔物の軍勢こそ、我らの槍先となるでしょう」

その一人が続ける。

「中間都市は使者を放つでしょうが……間に合いません」


全身に輝くルーンを刻んだ上位悪魔が、口元を歪めた。

「星雲から抽出した濃縮マナで、獣どもを喰わせてやった。力は指数関数的に跳ね上がっている。

間もなく、強化された草食獣も肉食獣も、森を飲み込む奔流となって我らに従うだろう。抗う人間どもも、例外なく押し流される」


「都市周縁の教団員たちも動いています」

別の者が低く告げた。

「罠、下級召喚、遅滞用のマナ障壁――すでに配置済み。

公国の軍が足止めされている間に、首都は孤立する。

そして……その時、群れは到達するのです」


三日間にわたり、その空き地は作戦本部へと姿を変えた。

円環状に描かれたマナ地図、 human patrols の接近を予測する魔視の水晶球、そして魔獣使いの集団を感知する探知ルーン。

すべてが配置され、すべてが機能していた。

あらゆる魔物、あらゆる悪魔、あらゆるヘラルドに役割が与えられ、その一手一手は致死的な精度で計算されていた。


一方、首都の中枢に位置する荘厳な行政広間。

ソフィアは大机に広げられた地図の前に立ち、街道、都市、前哨拠点を指し示していた。

彼女を囲むのは守備隊長、戦略魔術師、そして魔獣使いたち。緊張感の張りつめた議論が続いている。


「周辺都市から斥候の報告が届いています」

一人の隊長が口を開いた。

「近隣の森で魔物の活動が急増しています。高マナ値の草食獣が群れを成して逃走し、捕食者たちが逆に集結を始めています」


ソフィアは眉をひそめ、距離と時間を頭の中で即座に計算した。

各都市は首都から三〇〜四〇キロ圏内。連絡や部隊展開は迅速に行える――だが、わずかな遅れが致命傷になり得る。


「都市間の通路に巡回を増強して」

彼女は迷いなく命じた。

「斥候は全員、詳細な報告を携えて即時帰還。魔獣騎兵は常時待機、輸送隊の護衛と奇襲対応を徹底して」


一瞬、沈黙が落ちた。

誰もが理解していた。この事態の重さを。


首都は防衛指揮の要であり、戦力も揃っている。だが、それでも――油断は許されない。


「最善は尽くします」

戦略魔術師の一人が低く言った。

「ですが、もしこれが主都にまで到達すれば……壊滅的被害は避けられません」


ソフィアは顔を上げた。

その瞳は冷たく、そして揺るぎなかった。


「だから、到達させない」

一語一語に鋼の意志が宿る。

「人も、魔獣も、魔法も、すべてが戦力よ。この公国は――私が息をしている限り、決して落とさせない」


ダグラス公国は、単なる領土ではない。

それは一つの“生きた組織”だった。


首都を中心に、六つの戦略拠点が菱形に展開し、主要街道を監視しながら周囲の村落と生態系を守っている。


各拠点は、防衛力の結節点だった。


物理・魔法の両方を弾くマナ障壁。

魔獣が壁に触れる前に焼き尽くす広域防衛術式。

外部マナの流入を遮断する対マナシールド。

レベル50級の魔物を容易く貫く魔導弓塔。

そして、魔性マナに汚染された獣を分解する対魔獣ルーン。


通常であれば、どんな魔物の大群も城壁に辿り着く前に殲滅されていたはずだ。

斥候の警告など、制御された炎と破壊の行進に過ぎなかっただろう。人的被害も最小限で済んだはずだった。


――だが、今回は違った。


森や河川に開いた無数の裂け目から、目に見えない悪魔のエネルギーが潮のように広がっていた。

空気、水、大地――すべてを飽和させる魔性の波動。


それに触れた生物は、例外なく変異する。

しかも、その成長は線形ではない。

指数関数的だった。


レベル20の草食獣は、レベル50の捕食者へ。

レベル40の肉食獣は、70へと跳ね上がり、筋肉も感覚も歪められて研ぎ澄まされる。

レベル60の魔物は85に到達し、長大な牙、密度を増した爪、周囲のマナを歪める魔力のオーラを獲得した。


さらに一部――

変異した生態系の頂点、“アペックス”と呼ばれる存在は、レベル90を超え、小規模な建造物を破壊し、連携攻撃でマナ障壁すら突破する力を持っていた。


ダグラス公国の戦力は決して弱くない。

五千から七千のロード級・マギステル級兵士。

全員が戦闘とマナ運用の精鋭だ。


だが、同格以上の魔物が数千。

汚染され、統率され、悪魔の意思に導かれているとなれば――

その数ですら、心許なく見えた。


司令官たちが報告書を読み進めるにつれ、警戒は恐怖へと変わっていく。

敵の動きは無秩序ではない。

魔物たちは戦術的な群れを形成し、側面攻撃と集中突破を繰り返していた。


目的は一つ。

中央防衛線を破り、首都へ到達すること。


空気はオゾンと純粋な魔力の匂いを帯び、首都にいながら、森と山から伝わる大群の震動を感じ取れるほどだった。

レベル70級の魔物が踏み出すたび、大地が揺れる。

谷間に響く咆哮は、熟練兵の心にすら無力感を刻み込んだ。


ソフィアの傍にいる守護者は、ラリエットただ一人。

他の二体の魔法守護者は、ドゥカドの外でルシアンと行動している。

五百の精鋭魔獣騎兵がいても、この攻勢の規模では、一度の判断ミスが首都陥落に直結しかねない。


公国の防衛者たちが相手にしているのは、魔物だけではなかった。


空気中に漂う見えない脅威――

悪魔の腐蝕。

それは魔法的ウイルスのように、あらゆる生物の変異を加速させ、生態系そのものを歪めていく。


森は姿を変え、

川は純粋なエネルギーを泡立たせ、

丘陵は大地そのものが悲鳴を上げるかのように裂けていく。


この脅威は、物理的なものではない。

――終末そのものだった。

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