影の群れ(シャドウ・パック)
国境の谷は、張り詰めた静寂に包まれていた。
焦げた木材が軋む音と、生存者たちのかすかな囁きだけが、それを破っている。
公爵領から数百キロも離れたこの村は、まるで放棄された盤上のようだった。
どの駒も、今にも倒れそうな――そんな不安定さを孕んでいる。
先頭を進むのは、サンダーに跨るルシアン。
その隣で、アンバーが瓦礫の間を漂う霧の匂いを嗅いでいた。
ダグラス公爵領から派遣された五百の兵は、ソフィアの戦術に従い展開している。
防衛線を意識した列状配置。
半円を描く巡回部隊。
そして、緊急時に即応できる反応部隊。
護衛長アルベルトは、容赦のない視線で全体の規律を保っていた。
アデラは側面に位置し、彼女の魔法虎は一瞬たりとも警戒を緩めない。
エミリーは、ルシアンのすぐ傍を歩いていた。
一歩も離れない。
彼女の視線は常に彼を追い、手は剣の柄に添えられている。
後方では、アレハンドロとレオナルドが監視するように立っていた。
その眼差しには、隠しもしない憎悪と不信が宿っている。
ルシアンの一挙手一投足が、彼らには癇に障った。
できることなら――この場で消してしまいたい。
だが、そうすることはできない。
カラだけが沈黙を保ち、影と地形、そして戦闘の可能性を冷静に分析していた。
「……夜が来るわ」
山の向こうへ沈みゆく太陽を見ながら、エミリーが囁く。
「群れは、完全に暗くなるまで動かない」
ルシアンは静かに頷き、槍の柄を強く握った。
「侮るな」
低く、重い声。
「こいつらは賢い捕食者だ。村を包囲し、隙を待っている」
兵たちはバリケードを補強し、見張りを配置し、火線を整えていく。
すべてが計画通り。
その一つ一つを、ルシアンとエミリーが確認していた。
後方から、冷たい視線。
「……死ぬなら」
アレハンドロが毒を含んだ声で呟く。
「自分で招いた結果ってことだな」
「都合はいい」
レオナルドは目を上げずに答える。
「だが、それ以上に都合がいいのは――
生き延びて、政治的な罰を受けることだ」
二人は、若き公爵を見据えた。
憎悪を、隠そうともしない。
少し離れた場所で、カラが小さく呟く。
「……他の犬が倒れるのを待って噛みつく犬か。
みっともない」
その時――
森の奥から、音が届いた。
折れた枝。
噛み砕かれた骨。
重く、湿った呼吸。
アルベルトが即座に合図を出す。
「陣形を整えろ!
民間人を最優先で守れ!
群れが周囲を囲んでいる!」
木々の間を、巨大な影が動く。
濃い灰色の体毛。
黄色く光る眼。
異様に大きな顎と、肉も金属も裂く爪。
高位の捕食魔獣。
忍耐強く。
静かに。
完全な夜を待っている。
エミリーが眉をひそめる。
「……まだ来ない。
完全な闇を待ってる」
ルシアンは視線を落とした。
彼の内側で、影が――
水に落とした墨のように、静かに揺れ始めていた。
「エミリー……」
低い声。
「準備はしておけ。でも、広域の光魔法は使うな。
周囲を照らしすぎるな。
ただ――俺を見ていろ」
エミリーは戸惑いながらも頷いた。
「……何を、するの?」
返事はない。
ルシアンの視線は、村を囲む森の境界へと向けられていた。
空は暗くなり、昼の光は尽きていく。
影が、彼を呼ぶように広がっていく。
「夜が落ちたら……」
かすれるほどの囁き。
「俺が出る。
それだけだ……信じろ」
エミリーは理解できないまま、背筋に冷たいものを感じた。
森の魔獣たちが、どこか焦れたように動き始めている。
「……なにが、来るの?」
彼女は小さく問う。
ルシアンは答えなかった。
深く息を吸い――
闇が、彼を抱きしめた。
世界が、ほんの少し静かになる。
そして、ほんの少し――危険になる。
森の中。
ルシアンは、一体の魔獣を見据えた。
マナを計算する必要はなかった。
流れも、代償も、軌道も。
身体が、すでに覚えている。
彼は手を上げる。
虚空から、三本の闇の槍が現れた。
多くもない。
少なくもない。
――三本。
魔獣は、
自分が狩られたことを理解する前に、地に伏していた。




