狼の母(おおかみのはは)
ソフィアは負傷者の対応を指示していた。
その時――叫び声が彼女を止め、中央の魔法陣へと視線を向けさせた。
ラリエットが大きく口を開き――咆哮した。
その咆哮は、張り詰めた空気を引き裂く雷鳴のようだった。
広場全体が凍りつく。
ダグラス公国の兵士たちでさえ、動きを止めた。
ソフィア・ダグラスは、怒りを隠すことなく前へ進んだ。
一歩ごとに石畳が震え、三体の魔獣を従えるその存在感は、意思そのものを押し潰すかのようだった。
ルーンの刃のように冷たい瞳が、アレハンドロとレオナルドを射抜く。
「……よくも」
その声は、武器だった。
「私の息子に、そんな口をきく度胸があるのね?」
ダグラスの兵士たちは本能的に道を開いた。
――ソフィアと、その標的の間に立つことを、誰も望まなかった。
アレハンドロは、その気はなくとも一歩後ずさった。
レオナルドは視線を落とした。
「英雄気取りでも構わないわ」
ソフィアは続ける。
一語一語に、圧倒的な支配力が宿っていた。
「でも、もう一言でも余計なことを言ったら……ここで死ぬ」
ラリエットが半歩前に出る。
低く、腹の底から響く唸り。
――それが脅しではないことは、誰の目にも明らかだった。
市民たちは距離を取り、
司祭たちは言葉を失い、
ルシアンでさえ、一瞬だけ目を閉じた。
まるで、母が何を引き起こすかを恐れるかのように。
英雄たちは、一人、また一人と頭を下げた。
――ただ一人を除いて。
エミリーは前に出た。
ソフィアの真正面へ。
「お義母さま……お願いです」
声は柔らかかったが、震えを隠せてはいなかった。
「今は、その時じゃありません」
ソフィアはゆっくりと視線を向ける。
そこにあったのは憎しみではない。
母としての、原始的な痛みだった。
エミリーは深く息を吸い、目を逸らさなかった。
「皆、傷ついています。疲れ切っています。
今日、私たちは全員、何かを失いました。
でも……ここで争えば、傷は増えるだけです」
ソフィアは顎を強く噛みしめた。
サンダーが稲妻を走らせ、
アンバーが低く唸る。
――それでも。
彼女は一歩、下がった。
ルシアンは目を見開いた。
エミリーは、誰も成し得なかったことをやってのけた。
ソフィア・ダグラスを止めたのだ。
何も言わず、ルシアンはその場を離れた。
鎧にはまだエネルギーの残滓が揺れていたが、
その瞳は――生気を失っていた。
やがて、場が落ち着いた……
少なくとも、一時的に。
エミリーは彼を探した。
瓦礫の端。
崩れた壁の欠片に腰掛け、
燃え残る火に照らされた廃墟を、虚ろな目で見つめていた。
彼の手は、わずかに震えていた。
疲労ではない。
――もっと深い何か。
エミリーは、そっと近づく。
「ルシアン……」
彼はすぐには顔を上げなかった。
深く息を吸い、言葉の重さに耐えるように。
「エミリー……」
ようやく、かすれた声で。
「……遅すぎた」
彼女は何も言わず、隣に座った。
その沈黙が、いつも彼の心を壊す。
ルシアンは拳を握りしめる。
「俺は……領地を守っていた。
国境にオメガ級の魔獣が現れた。
無視できなかった。放置すれば……」
彼は首を振る。声が震えた。
「ダグラスが、滅びていた」
エミリーは、そっと彼の手に触れる。
「戦っている間に、小規模な群れが近くを通った。
本来なら逃げるはずだった……
でも、進むたびに増えていった。
……まるで、全てを呑み込む濁流のように」
息が詰まる。
「オメガを倒した時には……もう遅かった。
群れは、制御不能になっていた」
声が、完全に折れた。
「追おうとした……
やっと、動けた時には……」
唾を飲み込み、悔しさを噛み殺す。
「……もう、ここに来ていた。
君が戦っていて、街が崩れていて……
俺は……そこに、いなかった」
エミリーの瞳には、責めではなく、痛みがあった。
「ルシアン……」
優しく。
「あなたは、二つの場所に同時にいられない。
やるべきことをやった。
自分の家を……自分の人々を守った」
「……じゃあ、ここは?」
彼は瓦礫を見つめた。
「ここは、誰が守る?」
エミリーは言葉で答えなかった。
ゆっくり近づき、
彼にだけ見せる仕草で――
胸に額を預け、腕で包み込んだ。
一瞬、ルシアンは固まった。
そして、彼女の髪に額を落とし、
壊れた息を吐きながら目を閉じた。
エミリーの腕は、柔らかく、しかし確かだった。
**錨**のように。
「物事は……時々、制御を失う」
彼女は小さく言った。
「どれだけ強くても、どれだけ努力しても。
大事なのは……あなたが来たこと。
今、ここにいること」
ルシアンはゆっくり息を吸う。
世界の重さが、ほんの少しだけ軽くなった。
「エミリー……
俺が失敗したのは、どうでもよかったからだなんて……
思わないでくれ」
彼女は顔を上げた。
近すぎる距離。
彼は彼女の呼吸を感じた。
「そんなふうに、思うわけない」
囁く。
「あなたの心は……誰よりも知ってる」
彼は、痛みを伴う安堵の表情で目を閉じ、
彼女を強く抱いた。
この抱擁だけが、自分を立たせているかのように。
「……ありがとう」
かすかに。
「分かってくれて」
エミリーは何も言わず、
ただ、より強く抱きしめた。




