「跪かぬ公爵領」
ダグラス公爵領は、六つの要塞都市から成り立っていた。
それぞれが独自の伝統と、深く根付いた誇りを持つ土地。
規律、自立、そして何より――主君への絶対的な忠誠。
この地の民は、外部からの干渉を受け入れない。
ダグラス家の名誉を疑う言葉など、なおさらだ。
人口の約七割が闇属性魔法を扱い、それは単なる戦力ではなく、領土を守り、文化を継承するための“生き方”そのものだった。
最初の都市に神殿の司祭と神の使者が現れたとき、彼らは自信に満ちていた。
神の権威さえ示せば、自然と従う――そう信じていたのだ。
だが、彼らは致命的な過ちを犯した。
演説の中で、ルシアン・ダグラス、そしてその血統が「過去の蛮行」について責任を負うべきだと――ほのめかしたのである。
黄昏時。
中央広場は、仕事を終えた人々で溢れていた。
黒石の家々、露店、行き交う声。
そこへ、旗と巻物を掲げたヘラルドたちが姿を現した瞬間、空気が凍りついた。
「市民諸君!」
司祭の一人が高らかに宣言する。
「真実と向き合う時が来た! 神々は代行者を選び、我々は正義へ導くために――」
最初は、誰もが警戒しながら耳を傾けていた。
「……そして、ルシアン・ダグラス公とその一族が成してきた行為を認めねばならない。長年にわたり、彼の統――」
乾いた音が響いた。
闇魔法使いの証である黒い外套を纏った屈強な男が前に出て、杖を地面に叩きつけたのだ。
「黙れッ!」
怒号が広場に轟く。
「我らが主君の名を汚すとは何様のつもりだ!
ルシアン・ダグラス様は命を懸けてこの地を守っている!
貴様らも、貴様らの神も――裁く資格などない!」
ざわめきは怒号へと変わり、人々が前へ押し出した。
白髪の女性――かつての戦役を生き抜いた老兵が、空の籠を投げつける。
「出て行け! それで済むと思うなよ!」
若者たちが棒や即席の盾を手に司祭を囲む。
一人の魔術師が闇の魔力を集中させ、ヘラルドの足元が震えた。
「我らが公爵のために」
冷たい声が響く。
「もう一度でも侮辱すれば……その口で二度と語れなくなる」
沈黙。
顔面蒼白の司祭が、慌てて両手を上げた。
「我々は争いを望んでいるわけでは……ただ――」
果物、石、罵声が一斉に飛び、彼らは退却を余儀なくされた。
地に落ちた旗、踏みにじられた尊厳。
それは敗北以上のものだった。
警告だった。
ダグラス公爵領では、忠誠は説法や祝福で買えるものではない。
行動で示し、命を懸けて守るものなのだ。
報せは瞬く間に広がった。
他の都市も同様の対応を取る。
門は閉ざされ、塔には魔術師が立ち、民は力を尊び――操ろうとする者を拒絶した。
ヘラルドたちは理解した。
ダグラス家は、単なる支配者ではない。
跪かぬ民の意志そのものなのだ。
――――――――――
ダグラス城、戦略室。
揺れる燭台の光が、地図、報告書、マナ結晶を照らしていた。
誰も口を開かない。空気すら息を潜めている。
ルシアンは立ったまま、公爵領の地図に手を置いていた。
言葉は不要だった。
その存在だけで、場を支配していた。
隣では、公爵夫人ソフィアが腕を組み、剣のように鋭い視線で見守っている。
最初に沈黙を破ったのは、ラステン伯ハーヴェンだった。
「許しがたい……!
丁寧な顔をして入り込み、我が公爵領を侮辱するとは!
本来なら城壁に鎖で――」
「聖戦を望むの?」
ソフィアの冷たい声が遮る。
「誇りのために民を死なせるつもり? ハーヴェン」
伯爵は歯を食いしばり、黙った。
若き女領主、アルゴスのマラが続ける。
「ですが、無視すれば弱腰だと思われます。
私の街は怒りで満ちています」
「怒りでいい」
ソフィアは即答した。
「墓標より、よほどましよ」
議論は剣戟のようにぶつかり合う。
夜は静かに深まり、言葉だけが戦っていた。
ルシアンは動かなかった。
かつてなら剣を選んだだろう。
今は違う。
彼は手を上げた。
沈黙。
「神殿側は過ちを犯した」
静かな声だった。
「だが、我々はそれ以上の過ちを犯さない」
視線が下がる。
「許可なく、いかなるヘラルドも我が都市には入れない。
それが我々の立場だ。だが――戦争は起こさない」
ソフィアの口元が、わずかに緩む。
ルシアンは巻物を広げた。
「書状を送る。
礼節を保ち、だが断固として。
彼らの行動が不必要な緊張を生んだこと、今後は事前合意なく立ち入らせないことを伝える」
ざわめき。
「これは弱さではない」
ルシアンは言い切った。
「統制だ。主導権だ。
我々が流れを決める。彼らではない」
ハーヴェンが慎重に問う。
「……無視されたら?」
ルシアンは瞬きもしなかった。
「その時は」
低く、重い声。
「ダグラス公爵領に挑むという意味を――理解させる」
恐怖ではない。
尊敬が、場を満たした。
国境隊長が進み出る。
「公爵、北方でエプシロン級、オメガ級の魔物が増加しています」
「軍を出せ」
即答だった。
ソフィアが、そっと息子の肩に手を置く。
――この領は、もう大丈夫。
ルシアンは羽根ペンを取り、インクに浸す。
「書状を準備しろ。
巡回を強化する。神殿のためではない」
彼の視線は夜の彼方へ向けられていた。
「このマナ雲の下で……動いている“何か”のためだ」
その声は、もはや後継者のものではなかった。
公爵として。
指導者として。
世界に反応する者ではなく――世界を統べる者の声だった。




