運命の異常(ラ・アノマリー)
そして、バルコニーの高みで――
ルシアンは、ただそれを見つめていた。
跪かない。
祈らない。
背後に気配を感じた瞬間――
それは影のようでいて、闇ではなく沈黙そのものだった。
呼吸が、止まる。
ケリス。
彼を殺した神。
この世界へと投げ落とした存在。
「皆が何を見ているか、分かるか?」
感情の欠片もない声が続ける。
「救済。希望。祝福……」
一拍の沈黙。
「――だが実際は、鎖だ」
ルシアンは歯を食いしばった。
言葉を発すれば、声が震えてしまいそうだった。
一瞬、笑いたくなった。
人生を奪われ、望まぬ存在へと作り替えられた自分。
あまりにも残酷な冗談だ、と。
「始まりの時から」
ケリスは淡々と語る。
「神々は力によって生きているのではない。
信仰によってだ。
崇拝は力を与え、忘却は――死をもたらす」
空を、誰にも気づかれぬ一筋の黒い亀裂が走った。
「だからこそ、神は決して完全には降臨しない。
それをすれば……神ではなくなる」
ルシアンは、かすれるほど低く囁いた。
「……では、あれは何だ?」
「操り人形だ」
ケリスは即答した。
「分身。器。
神の意思を実行するための道具。
従順な存在。異世界から連れてこられた“英雄”たちだ」
ルシアンの心臓が、強く脈打つ。
「なら……なぜ俺をここへ連れてきた?」
返答は、不自然なほど静かだった。
「裂け目が必要だからだ」
ルシアンは眉をひそめる。
「意味が分からない」
「お前をこの世界へ引きずり込んだ理由は一つ」
ケリスは明かす。
「お前は“運命”に存在しない」
すべての魂は、生まれた瞬間に神に刻まれる。
生も、死も――神のもの。
「だが、お前だけは違う。
刻印がない。予測不能だ。
幾千年ぶりに……神々は盲目になった」
全身を悪寒が走った。
「……俺に何を求めている?」
荒い声で問う。
「利用する気か?」
心の奥で、笑みを“感じた”。
魂を持たぬ、冷たい笑み。
「仕えろとは言わない。
ただ――生きろ」
「それだけか?」
ルシアンは吐き捨てる。
「俺の世界を奪ってまで?」
「お前が死ねば」
囁きは雷鳴のように響いた。
「すべてが無駄になる」
風が、止まった。
「ヘラルドには近づくな」
「なぜだ」
「彼らは気づく。
お前が“異常”であることに。
異界の魂であることに。
――そして、排除しようとする」
沈黙が、重くのしかかる。
「……俺は、何なんだ?」
「この世界で唯一――
運命に支配されない、自由な存在だ」
ルシアンは拳を握り締めた。
マナの奔流が、周囲に渦巻く。
「それを……自由と呼ぶのか」
低く唸る。
「俺は、望んだ覚えはない」
「分かっている」
ケリスは答えた。
「だが、誰にも操られてはいない」
その時、ヘラルドたちが大地に降り立ち、
群衆は一斉に跪いた。
ルシアンは目を閉じる。
そして――
再誕の時と同じように、恐怖を感じた。
◇
アデラは、ゆっくりと目を開いた。
部屋は薄暗く、
バルコニーから差し込む蒼い光だけが、輪郭を照らしている。
手を伸ばす。
――隣に、ルシアンはいない。
身を起こすと、
彼は手すりに寄りかかり、動かずに立っていた。
夜明けを眺める男の姿ではない。
誰にも見えない“何か”を見つめる者の背中だった。
アデラは音を立てずに歩み寄り、
後ろから腕を回し、裸の背に頬を預ける。
「……我が主」
囁く。
「眠れないのですか?」
すぐには答えがなかった。
彼の手は手すりを掴み、強張っている。
風が髪を撫でるが、
その瞳は――遠くにあった。
アデラは震えを感じた。
寒さではない。
初めて――
彼の身体はここにあるのに、
魂がどこか遠くへ行ってしまったように思えたから。
「すべてが変わり始めている」
ようやく、低く告げる。
「その先が……救済か、破滅か……分からない」
アデラは、腕に力を込めた。
「あなたの傍にいられるなら」
静かに、しかし強く。
「どんな未来でも……向き合えます」
ルシアンは目を閉じる。
一瞬、足元に大地の感触が戻る。
運命の重さ。
闇の声が、まだ心に残っていた。
――ケリス。
「アデラ」
彼は振り向く。
見上げた彼女の目に映ったのは、
もはや幼い頃に慕った“少年”だけではなかった。
影。
そして、決意。
「すべてが崩れ落ちる時が来たら……」
静かに言う。
「強くいてほしい」
アデラは、恐怖を胸に抱きながらも微笑んだ。
「何が起きても、我が主……
私は、ずっとあなたの傍にいます」
ルシアンは彼女の頬に手を添え、
額を重ねる。
世界に聞かれるのを恐れるように、
極めて小さな声で告げた。
「残された時間が、どれほどか分からない……
だから、何があっても――」
言葉は、続かなかった。
必要なかった。
アデラが、口づけたから。
昨夜のような激しさではない。
深く、静かな口づけ。
――空が再び砕けるその時も、
手を取り合っていると誓うかのように。
数日後――
神殿は、今や人の海と化していた。
家族連れが肩を寄せ合い、
貴族も平民も分け隔てなく混じり合い、
祭司たちは膨れ上がる群衆を制御できずにいた。
泣き崩れる者、祈りを叫ぶ者……
だが大半はただ待っていた。
この祝福こそが、明日を生き延びる唯一の希望になるかもしれないと、
分かっている者の――切実な沈黙とともに。
ざわめきの中で、同じ言葉が何度も囁かれていた。
「ヘラルドは、人類を導く者を探している」
「選ばれるのは英雄……“運命”を持つ者だ」
エミリーは人波をかき分け、
ついに光のヘラルドの前へと進み出た。
それは塔のように高く、
白き鎧は輝くのではなく……
まるで夜明けそのものを吸い込むかのようだった。
顔は存在せず、
そこにあるのは静謐な空白だけ。
その“視線”がエミリーに向けられた瞬間――
世界が、息を止めた。
胸の奥で、何かが灯る。
炎のようでいて、熱はなく……
焼くのではなく、浄化する光。
膝が、震えた。
そして――空が開いた。
雷ではない。
炎でもない。
瀕死の者ですら顔を上げるほど、
やさしく、温かな光とともに。
そこから、声が響いた。
それは人の声ではなかった。
音ですらないのに、魂に直接届く。
――エミリー・カーター。
――暁の娘よ。
――私は、汝の最初の産声よりも前から見ていた。
――恐れも、勇気も。
――そして、心が砕かれながらも、
――なお他者を癒そうとする、その在り方を。
――汝を選ぶ。
――人類が“夜明け”を忘れた地に、
――我が光を運ぶ者として。
――救世主ではない。
――導き手として。
――我が意志を体現せよ。
――永遠の夜が訪れるその時、
――最初に炎を灯す者となれ。
光のヘラルドは、
エミリーの前で片膝をついた。
その瞬間――
群衆は一斉に跪いた。
エミリーは泣いた。
栄光のためではない。
世界そのものの希望の重さを、
初めて知ってしまったから。
そして――
はるか遠くの場所で、ルシアンは空を見上げていた。
理由も分からぬまま――
彼の心臓が、
かすかに、しかし確かに――震えた。




