「世界の前での口づけ」
その後、ルシアンはエミリーをカーター家の屋敷まで送り届けた。
馬車が止まり、彼女が降りると――
エミリーは迷いのない眼差しで彼を見つめた。今回は、躊躇しなかった。
一歩、近づく。
両手で彼の顔を包み――
そして、口づけた。
最初は、ほんの一瞬。
だが、ルシアンが彼女の腰を引き寄せ、キスは長く、深くなった。
夕焼けの光が二人の影を染める。
先に唇を離したのはエミリーだった。
恥ずかしそうに視線を落とし、小さく「……またね」と呟くと、鼓動を抑えきれないまま屋敷へと駆け込んでいった。
自室に入ったエミリーは、扉を閉め、背を預ける。
呼吸すら、まともにできていなかった。
ルシアンは数秒、その場に立ち尽くし、彼女の背中を見送っていた。
戸惑いと、わずかな後悔。
――キスそのものではない。
そこで感じてしまった“何か”に対して。
その時になって初めて、彼は入口に立つカーター伯爵夫妻の存在に気づいた。
二人はすべてを見ていたが、言葉はなかった。
静かで、礼儀正しい一礼だけを残し、何事もなかったかのように去っていく。
余韻を胸に残したまま、ルシアンは自分用の馬車に乗り込んだ。
――その瞬間。
アデラが、告げもせずに中へ入ってきた。
軽く身を屈め、絹のハンカチで、
別の女性が残した口づけの痕を、丁寧に拭い去る。
そして、何も言わずに――彼女は口づけた。
優しさではない。
抑え込まれていた嫉妬が滲む、強い欲望のキスだった。
ルシアンは今度は彼女の後頭部を掴み、ためらいなく応える。
息が続かなくなるまで、キスは終わらなかった。
アデラの身体が震える。
――恐怖ではない。
「……その大胆さ」
低く、確かな声でルシアンは囁き、暗い瞳で彼女を見下ろす。
「今夜、代償を払ってもらう」
彼女はただ頷いた。
頬を赤く染めたまま。
馬車はダグラス家の屋敷へと向かう。
到着すると、ルシアンはアデラの腕を取ったまま、自室へ直行した。
その薄暗い部屋で、待っていたのはイザベラだった。
「ご両親の家に泊まるものだと思っていたが」
ルシアンは、わずかに驚いて言う。
イザベラはゆっくりと近づき、彼の首に腕を回し、強い意志を宿した瞳で見上げた。
「ここにはいられないわ。もう……ここが私の家よ」
そう言って、アデラに挑むような視線を向ける。
「それに今日は、主としての務めがあるもの……」
「いいえ」
アデラが冷たく遮った。
「今夜は、私のものよ」
ルシアンは軽く咳払いをする。
この争いを長引かせる気はなかった。
「イザベラ。話は、明日だ」
彼女は食い下がらなかった。
微笑む。
――明日が来ることを、知っていたから。
その夜――
空が、砕けた。
光でもなく。
炎でもなく。
完全な沈黙によって。
あまりにも重く、圧倒的な静寂。
鳥たちは飛ぶことを忘れたかのように、木々から落ちた。
司祭たちは理解もできぬまま膝をつき、涙を流した。
魔術師たちは、体内のマナが震えるのを感じた。
まるで――
見知らぬ“何か”が、魂一つ一つを見定めているかのように。
そして、夜の帳が裂ける。
赫令者たちが、降臨した。
異なる王国に。
異なる大地に。
だが、同じ命令のもとで。
高く、威圧的な存在。
光を映さぬ鎧――
そこに映るのは、記憶だった。
歴史に刻まれなかった無数の戦争を宿す、古き装甲。
肉体ではなく、世界そのものに刻まれた裂傷。
魔力ではなく、砕けた意志によって支えられる浮遊する冠。
彼らは天使ではない。
救済者でもない。
――英雄だ。
別の世界の英雄たち。
奪われ、空虚にされ、
痛みによって研ぎ澄まされ、鎖で縛られた存在。
無限にも思える悲しみを湛えた瞳を持つ者。
盲目的な信仰に燃える、人の形をした松明のような者。
そして、ほんの一部は――
……声なき声で、誰にも届かぬ懇願を囁いていた。
だが、彼らすべてを動かすものは一つ。
神々の命令。
しかし、人々にはそれが見えなかった。
彼らが見たのは――奇跡。
そして、世界は“声”を聞く。
それは天からでも、世界からでもない。
魂の奥底から響くような声だった。
『愛しき子らよ……
我らは汝らの痛みを見た。
恐怖を感じた。
闇は希望を喰らい、力は限界に達している』
『ゆえに神々は、意志を降ろすことを決めた』
『この器を通して、
我らの光、我らの炎、我らの力、我らの雷は顕現する』
『神殿へ向かえ。
祝福を受けよ。
武器を取り、災厄に立ち向かえ』
『そして――試練を越えよ』
『汝らは、独りではない』
王国では、炎の赫令者が、王座を取り戻す王のように神殿へ降り立った。
同時に、光の赫令者が祈りの中に舞い降り、病人たちは癒えたと信じて立ち上がる。
力の神の降臨は大理石を軋ませ、
雷の赫令者は広場全体を照らし、新時代の始まりを告げるかのようだった。
そして――
あらゆる王国で。
帝国で。
忘れ去られた都市や要塞で。
希望が、生まれた。
村々は、その降臨を救済として歓呼した。
貴族たちは忠誠を誓い、
軍は失われていた士気を取り戻す。
――誰一人として、理解していなかった。
本当に何が起きたのかを。
世界が、もはや自らの運命の主ではなくなったことを。
神々が、最初の一手をすでに動かしていたことを。
そして――
真の危機は……
……まだ、始まってすらいなかった。




