「王国が息をする」
城の第二応接室――小さく、温かく、ステンドグラス越しの橙色の光に満ちたその場所は、女王と公爵夫人が権力の仮面を外せる、数少ない空間だった。
古い友を迎え入れた瞬間、アデラインは深く息をついた。
「やっと来たのね、ソフィア。あの会議で、私は干からびそうだったわ」
「てっきり、人がゆっくり死んでいく光景には慣れているものだと思ってたけど?」
ソフィアは疲れた笑いをこぼし、冗談めかして返す。
アデラインは微笑んだ。
冠も、形式張った口調もない、素の笑顔で。
「それで……何を持ってきたの?」
「あなたへの気持ちよ」
そう言ってソフィアは、卓上にルーンの腕輪を置いた。
「食料よ。保存食、穀物、安定化させたマナ根……首都全体で一か月は持つ量」
「物資はアーティファクトだけじゃない。昨夜、西門から三十台の荷車が入ったわ」
「そしてこの刻印には――」
指で軽く触れる。
「緊急用の濃縮備蓄がある。穀物、安定根、粉、保存肉」
慎重に配給すれば、首都で丸一か月。
アデラインは、震えるように息を吐いた。
「ソフィア……これは……」
言葉を探し、詰まる。
「……多すぎるわ。これは……救いよ」
「好きに使って」
ソフィアはそっと彼女の手に自分の手を重ねた。
「どう民を支えるかは、あなたが決める。公爵領は、まだ作れる」
アデラインは感極まり、息をつく。
「……どうして、こんなことができるの?」
「さあね」
ソフィアは笑った。
「でも、ルシアンが本当に頑張ったの。だから、感謝するならあの子に」
二人の間に、温かな共犯めいた沈黙が流れる。
やがてアデラインは一瞬視線を落とし、問いかけた。
「ソフィア……あなたは? ローレンスの件は……」
公爵夫人は腕を組み、少し考える。
「分からないわ。悲しくなかったと言えば嘘になる」
「でも……もう終わった話よ」
「私の最優先は、いつだってルシアン。あの子が私の世界で、最初で最後の務めなの」
アデラインは、心からの慈しみを込めて彼女を見つめた。
「あなた、思っているほど冷たい人じゃない」
「あなたも、絵に描かれるほど聖女じゃないわ」
ソフィアは小悪魔のように微笑む。
二人は笑い合った。
その時、扉が開く。
エリザベスとルシアンが、手を取り合って入ってきた。
女王は、思わず小さなため息を漏らす。
エリザベスには、ここ数か月の脆さはもうなかった。
そこにあったのは――決意。光。
すべてを賭して愛する覚悟を持つ女性だけが宿す、秘めた炎。
ソフィアは息子を見る。
その表情。
そして、王国の王女と指を絡めている姿。
公爵夫人は、わざと眉をひそめた。
「まあ、ルシアン・ダグラス……ずいぶん忙しくしていたようね?」
彼はごくりと喉を鳴らす。
「……母上……」
だが、その瞳は態度と裏腹だった。
喜び、安堵、誇り――それらが、はっきりと輝いている。
アデラインは、もはや取り繕う気もなかった。
「ソフィア、やめなさい。どう見ても、二人のことを喜んでるでしょう」
公爵夫人は、くすっと笑う。
「まあ、何と言えばいいのかしら」
「私の息子、昔から人の心を奪うのが得意だったもの」
エリザベスは恥ずかしそうにルシアンの手を握り直したが、離そうとはしなかった。
公爵領から届けられた食料は、何千もの命を救った。
ダグラス式に着想を得た温室が、次々と建ち始める。
城壁には第三型石化植物が配置され、攻撃的なマナを吸い上げ――
まるで都市が、何か月ぶりかに呼吸を始めたかのようだった。
首都に、再びパンの匂いが戻る。
市場のざわめきが戻る。
命の気配が戻る。
――だが、すべてが順調というわけではなかった。
朝になり、ついに避けられない再会の時が訪れた。
ルシアンは、可能な限りそれを先延ばしにしてきた。彼女の前で発する一言一言が、自分の知る“未来”を変えてしまうかもしれない――そう分かっていたからだ。
だが、待ち合わせの場所に辿り着いた瞬間、もはや逃げ道はなかった。
エミリーが待っていた。
背筋を伸ばし、わずかに強張った姿勢。何度も心の中で練習したであろう、作られた静けさ。
――郡では、少し大胆すぎたかもしれない……もっと慎重になるべきだった?
いいえ。今が、その時。
ここで退いたら、一生後悔する。
ルシアンは護衛を伴って歩み寄った。
先頭を進むのはアルベルト。揺るぎない威圧感を纏い、その後ろにはレベル70~75の戦士が三十名――全員が魔力適性を持つ、公爵護衛の正式条件を満たした精鋭だ。
その傍らにはアデラと、すでにレベル66に達した虎。
後方には、治癒と防御を専門とするレベル65~70の魔女が十名。
そして最後尾を締めるのは、レベル80に到達したソフィア・アンバーの狼。その眼光は、見る者を竦ませるほどだった。
エミリーはそれらすべてを目にしながら……
それでも感じたのは、胸の鼓動が早まる感覚だけだった。
彼が目の前に立つと、二人はわずかに頭を下げる。
礼儀正しく、抑制された挨拶。
――あまりにも、冷たいほどに正しい挨拶。
「……レディ・エミリー」
ルシアンは声を整え、低く告げた。
「久しぶりだ」
「……ええ、そうですね。殿下」
エミリーはぎこちなく答える。
――どうして、こんなにも距離のある声になってしまったのだろう。
気まずい沈黙。
未来で自分を処刑する存在になる少女を、どう扱えばいいのか分からない彼。
そして、数か月前に交わした口づけを、どうしても忘れられない彼女。
「……カーター領での滞在はどうだった?」
ルシアンは、努めて穏やかに尋ねた。
「ええ……順調でした。効率的で……」
一瞬、喉を鳴らす。
「帰路も、思ったより静かで……危険はありませんでした」
ルシアンは頷いた。
その瞬間、無意識に彼の視線が、彼女の唇へと落ちる。
柔らかさを、思い出してしまった。
エミリーはそれに気づき、顔を真っ赤に染める。
「お、お食事の場所を用意しています!」
慌てたように言った。
「……前と同じ、あのお店にしようと思って……」
ルシアンは、ほんの一拍遅れて反応した。
「……ああ。覚えている」
エミリーは深く息を吸う。
――私は、彼の婚約者。これは、当然のこと。
戦場で磨いた勇気を、感情に向けて振り絞り、そっとルシアンの腕に手を添えた。
一瞬の緊張。
だが、彼は振りほどかなかった。
感じる、かすかな体温。
柔らかさ。
ぬくもり。
二人は並んで歩き出す。
視線を交わさず。
言葉もなく。
言いたいことは、山ほどある――けれど、まだ。
二人は並んで、レストランへ向かった。
店内は前回よりも賑わっていた。
貴族と冒険者が席を埋め尽くし、王国全体に漂う緊張を映し出している。
彼らは貴族専用階へと上がり、夕暮れに染まる地平線を望む窓際の席へ案内された。
ざわめきに包まれながら、エミリーはカーター領の復興について、できるだけ軽い話題を選んで語る。
その笑みは控えめで、どこか幼さを残していた。
一瞬だけ、彼女は彼がダグラス公爵であることを忘れているようにも見えたが――
時折、唇の記憶が蘇るたび、視線が揺れる。
ルシアンは慎重に彼女を見つめていた。
言葉一つが、あまりにも繊細だ。
もしエミリーが“あの存在”でなければ。
もし光の祝福を宿していなければ。
……もしかしたら、彼女が踏み出すその小さな一歩を、もう受け入れていたかもしれない。
会話が進み、張りつめた空気が少しずつ和らいでいく――
そう思えた、その時。
その偽りの平穏を、よく知る声が切り裂いた。
「――ずいぶん偶然だな、ルシアン」
彼はゆっくりと顔を向ける。
カラ・ボーランス。
荒々しい美貌、高い自尊心。
招かれることもなく、当然のように席に腰を下ろす。その振る舞いは、まるで自分が主であるかのようだった。
空気が変わる。
エミリーは驚き、瞬きをする。
ルシアンは、危険な相手や厄介な相手に向ける、あの冷静な眼差しで彼女を見た。
その奥に、一瞬だけ懐かしさが過ぎる。
――学園時代。何度も決闘を挑まれ、そのたびにアルベルト流で容赦なく叩き伏せた日々。
「私の記憶が正しければ」
顎をわずかに上げて言う。
「同席の栄誉を与えられているのは、次期ボーランス公爵令嬢だったな」
「昇格、おめでとう。ルシアン」
カラは淡々と答える。
「そして……ご尊父の死に、心から哀悼を」
エミリーの身体が、凍りついた。
――違う……
――私、何も言ってない……
――祝福も、弔意も……何一つ……。
カラは、まるで自分の席であるかのように、自然に料理を取り分けながら続ける。
「父から、戦の話は聞いた」
その瞳には、偽りのない敬意が宿っていた。
「ローレンス・ダグラスは真の英雄だった。あなたの領の兵たちも……退かずに、彼と共に倒れた。名を、誇り高く刻んだ」
厳かな沈黙が、卓を包む。
――その時。
「――ルシアン!!」
広間に響き渡る怒声。
第三王子、レオナルド・エルクハン・フェルッシが、礼儀も体裁も投げ捨てた歩みで近づいてくる。
「イザベラはどこだ?」
侮蔑を隠さず吐き捨てた。
次の一歩を踏み出す前に――
彼の喉元数センチで、剣が止まった。
アルベルト。
一瞬で、ルシアンの護衛全員が武器を抜く。
レベル70~75の戦士三十名、熟練の魔女十名、アデラの虎、レベル80のアンバーの狼。
広間は、“戦争寸前”の空気に凍りついた。
王子の護衛たちは、青ざめる。
ルシアンは内心でため息をついた。表情は、動かない。
(今日は何だ……英雄の同窓会か?)
(この坊ちゃんが、俺が夜ごとイザベラに何をしてるか知ったら……夜明け前に首を要求するだろうな)
アンバーが本能的に一歩前に出て、彼の隣に立つ。
空気が、重く沈む。
周囲の人々は後ずさる。
王子の雷属性マナが弾ける一方で、アルベルトの圧は――山のようだった。
「殿下」
ルシアンの護衛長が、冷たく告げる。
「敬意を求めます。こちらは、ダグラス公爵の御前です」
王子付きの将軍が、震える声で割って入ろうとする。
「王族の前で剣を抜くのは……正しくない……」
だが、それが形式上の言葉でしかないことは、誰の目にも明らかだった。
誰も、アルベルトと刃を交えたいとは思わない。
その間も、ルシアンは食事を続けていた。
王子を見ることすらなく。
やがて、緊張はゆっくりと解けていく。
戦いは起こらなかった。
――だが、この日の火種は、確かに残ったままだった。
王子の護衛たちは、明らかな動揺を浮かべながら後退した。
顔色を失った将軍は、なお剣の柄に指をかけたまま震えつつ、静かに頭を下げる。
第三王子レオナルドは、顎を強く噛みしめ、腕を走る電撃を散らしながらルシアンを睨みつけた。
――だが当の本人は、ただグラスを唇へ運び、一口飲むだけ。
まるで、その場の出来事が取るに足らぬものであるかのように。
その仕草――
怒りに対する完全な無関心は、どんな言葉よりも王子の心を打ち砕いた。
「……これは、終わりじゃないぞ。ダグラス……」
レオナルドは歯の間から吐き捨てる。
ルシアンは、相手を見ることすらなく、静かにグラスをテーブルへ戻した。
「今日、始まった話でもない」
声音は、微塵も揺れなかった。
その後に落ちた沈黙は、挑発よりも重く、鋭かった。
レオナルドは眉をひそめたが、やがて踵を返す。
その足取りが重く響いたのは、怒りよりも、傷ついた誇りのせいだった。
カラは一部始終を、口元に薄い笑みを浮かべて眺めていた。
ルシアンが数々の戦いに勝つ姿は見てきたが――
ここまで労せずに勝利する場面は、そう多くない。
「学園で、結局してくれなかったあの勝負……まだ待ってるのだけど」
立ち上がりながら、彼女は小さく呟く。
「戦うことを求めるのをやめた時――その時が、勝負に値する時だ」
ルシアンは彼女を見ることもなく、そう返した。
カラは短く笑った。
それは、どこか懐かしさを帯びた笑いだった。
そして、彼女は去っていった。
扉が閉まると、広間にはゆっくりとざわめきが戻る。
だが――
その夜、誰一人として、ルシアンの近くで大声を出す者はいなかった。
少なくとも、
その夜のうちは。




