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「約束と、求めるもの」

その日、ルシアンは限界まで疲れ切っていた。

ベッドに身を投げ出した瞬間、誓約と責任と鍛錬の重みが胸を締め付ける。


目を閉じた――ほんの一瞬。


扉が、静かに開いた。


アデラが入ってくる。


鎧でも、儀礼服でもない。

軽いチュニック一枚。

髪は下ろされ、表情は――

恥じらい、決意、そして混乱が混ざり合っていた。


「アデラ……?」

ルシアンは身を起こす。

「何かあったのか?」


彼女はゆっくり首を振り、一歩、また一歩と近づいた。


「私……」

喉を鳴らす。

「自分が、何を感じているのか……分からないの」


ベッドの端に腰を下ろす。

近いが、触れない距離。


「あの夜に見たこと……」

囁くように。

「理解できなかった。でも……ここが、痛かった」


胸に手を当てる。

それだけで、十分だった。


ルシアンは黙って彼女を見つめた。

そこにあったのは幼さではない。

自分の感情を知る機会を与えられなかった、一人の女性の戸惑いだった。


「アデラ……」

優しく言う。

「君が、何を望んでいるのか、教えて」


彼女はまっすぐ彼を見た。

まつ毛は震えていたが、目を逸らさない。


「一緒にいたい」

痛いほど正直な声。

「義務じゃない。守護でもない。

後をついて回る子供でもない……」


言葉を探す。


「……あなたにとって、大切な存在でいたい」


喉が締め付けられる。


アデラは深く息を吸った。


「やり方も、意味も分からない。

見たことも、理解できなかった……でも」


震える手を、差し出す。


「あなたに教えてほしい。

“一緒にいる”って、どういうことか。

もし……あなたも、それを望んでくれるなら」


ルシアンは、その手を取った。


反射ではない。

眠気でもない。


はっきりとした意志で。


「アデラ。俺を見て」


彼女は顔を上げる。


「見たからじゃない。

義務だからでもない。

これが、君の選択だと分かっている時だけだ。

訓練でも、命令でもない。

――それでもいいか」


アデラは、強く手を握り返した。


「望んでる……」

告白のように。

「全部は分からない。でも……あなたと、選びたい」


沈黙は、温かく、澄んでいた。


ルシアンは彼女をそっと引き寄せる。

習慣でも、無意識でもない、初めての動き。


アデラは額を彼の胸に預け、呼吸を合わせた。


それが、最初の一歩だった。


模倣でも、衝動でも、機械的な行為でもない。


共有された決断。


その夜は、拙速ではなかった。

ゆっくりで、言葉があり、意識的だった。

初めて“対等”として向き合う、感情の発見。


翌朝、アデラは彼に抱き寄せられて目を覚ました。


怯える獣ではない。

選んだことを、少し理解した女性として。


そして――

幼い頃から初めて。


反射ではなく。

自分の意志で、彼の手を取った。


月日は早く過ぎた。


ルシアンが“ゲームの知識”を元に導入した屋上農法により、収穫は豊かだった。

緑に覆われた屋根は、もはや公爵領の象徴となっていた。


だが、良い知らせはそこまでだった。


届く報告は、日増しに不穏さを増す。


・巨大化する魔物の群れ

・凶暴化する変異

・封鎖される街道

・孤立する村

・連絡の取れない地域


そして、最悪の報せ。


“安全地帯”が、縮小している。


アルベルトが、誰もが恐れていた言葉を口にした。


「――我が君。

王国は、臨界段階に入っています」


地図を見るたび、ルシアンの背筋が凍る。


知っていた。

次に来るものを。


ゲームで、体験した。


本当の地獄は――これからだ。


城の中庭で、ルシアンは宣言した。


「冒険者諸君。

ブロンズランク以上を対象に、

ダグラス公爵領は、王都アクロポリスへの護送任務の志願者を募る」


冒険者たちがざわめく。


アクロポリス。


ゲームでも、現実でも――

人類の運命が決まる場所。


「上層部へ報告を届ける」

ルシアンは続ける。

「覚悟して来てほしい。

向こうで待つのは、生易しいものじゃない」


隣で、リリアンと《ブルーカレント》の面々が緊張した笑みを交わす。


「新しい冒険?」

カエラが尋ねる。


「……新しい戦争よ」

リリアンが低く呟いた。


一方、マルサは床に座り込み、空の酒瓶に囲まれていた。

ローレンスの死。

誓約の刻印の消失。


彼女の世界は、色を失っていた。


扉が開く。


「出ていけ! 一人にしろって言ったでしょ!」


だが、現れたのは使用人ではない。


「……マルサ様」

ルシアンの静かな声。


彼女は顔を上げた。


見つめ――

崩れ落ちる。


「ローレンス……」

震える声。


ルシアンは一歩近づくが、触れる前に、彼女の方から倒れ込んできた。

必死に、縋りつく。


泣き、笑い、震える。


「どうして……」

嗚咽。

「どうして皆、行ってしまうの……」


ルシアンは、そっと離そうとする。


「俺はローレンスじゃ――」


「言わないで!」

胸にしがみつく。

「ただ……一人じゃないって、感じさせて……」


酒と悲嘆と眠らなさに疲れ切った身体が、彼に預けられる。


彼は、支えることしかできなかった。


不適切なことは、何もない。


壊れた一人の女性と、

重すぎる義務を背負う青年。


眠りに落ちたマルサを部屋へ運び、毛布をかけ、扉を閉める。


ローレンスへの誓いが、胸に重く沈んだ。


その朝のダグラス城は、いつもより静かだった。

悲しみではない。

始まりを前にした、張り詰めた静寂。


アデラは、期待と恐怖を混ぜた表情で、ルシアンの手を強く握る。

白虎は足元で丸まり、耳を立てた。


「……本当に、そんな遠くまで行くの?」

小さな声。


「うん」

ルシアンは微笑んだ。

「動く時だ」


アデラは、手を離さなかった。


高い窓の向こうから、イザベラは二人の姿を見下ろしていた。

その視線を向けたまま、侍女たちに荷造りの指示を出す。


言葉はなかった。

ただ、アデラを追うその瞳は静かで、計算されていた。


――もう分かっている。

彼女たちは、同じ男を共有している。

そして、同じ不確実な旅路も。


一つ上の階では、ソフィア・ダグラスが三体の魔獣の装具を調整していた。

その表情は、複雑な感情の結び目だった。

誇り。

不安。

そして、世界の混沌が消え去るまで息子を金庫に閉じ込めておけない自分への、かすかな苛立ち。


「止められないわ……」

諦め混じりに呟く。

「もう、子供じゃない。

……公爵なのだから」


司令官の制服に身を包んだアルベルトは、護衛部隊の編成を監督していた。

百名の騎士。

二百名の軽装兵。

五十名の精鋭冒険者。

そして、内部選抜の魔術師たち。


ルシアンが“公爵”として旅立つのは、これが初めてだった。

公爵領中の視線が、彼の一挙手一投足を見逃さない。


――だが。


それでも、彼の心を高鳴らせている理由は、彼らではなかった。


理由は、遠くにある。

八か月先。


エリザベス。


八か月、彼女の笑顔を見ていない。

声を聞いていない。

星空の下で、言葉にせずとも“運命”を受け入れた、あの夜から。


再会の場所は――

王都アクロポリス。


権力の中心。

貴族たちの心臓部。

そして、世界の変化が黄金の城壁の内側にまで及び始める場所。


ルシアンは、深く息を吸った。


「……行こう」


城門が、厳かな轟音と共に開かれる。


彼は振り返らず、護衛の先頭に立って進み出た。

その背には、すべてを背負って。


仮面なしで彼を欲する女――イザベラ。

理解できぬまま、彼を愛した少女――アデラ。

運命からさえ守ろうとする母――ソフィア。

剣であり盾である男――アルベルト。

そして、未来を託した一つの公爵領。


その先に――


夜明けのように待っている存在がいる。


エリザベス。


王都は、再会の地となる。

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