「緑に包まれた公爵領」
キャラバンがついに城壁を越えたとき、
ルシアンは一瞬、その場に立ち尽くした。
――まるで、別の都市に足を踏み入れたかのようだった。
公爵領全体が、緑に包まれていた。
装飾的な緑ではない。
見せかけの緑でもない。
それは――生き延びるための緑だった。
屋根の上、バルコニー、回廊や通路に至るまで、
《ニュートリアン・リナ》と呼ばれる柔軟で長い蔓植物が伸びていた。
マナ嵐以前、この世界のどの植物学者も目にしたことのない植物だ。
人々にとっては、最近もたらされた奇妙な祝福。
だがルシアンにとっては――
ゲームで何度も命を救ってきた、極めて重要な資源だった。
小さく楕円形の実が房になって垂れ下がり、
常に熟し、常に収穫可能。
味は素朴で特別ではないが、
開けた農地に頼らずとも、都市全体を養うには十分だった。
――まさに、ゲームで生き残った人間都市と同じ。
そして今、その“知識”が、
彼の現実の世界で芽吹いている。
「……まるで、エルフだな」
石造りの煙突に絡みつく実り豊かな蔓を見て、
彼は小さく呟いた。
冗談のようでいて、真実でもあった。
ゲームでは、閉鎖された都市で生き延びるため、
人間にこの栽培法を教えたのはエルフだったのだから。
市民にとっては実用的で新鮮な光景。
ルシアンにとっては――
大飢饉を防ぐために不可欠なシステム。
だが、目を引くのは植物だけではない。
数週間で建てられた新しい住宅群。
屋根は蔓を支えるために補強され、
共同中庭は即席の都市型温室へと姿を変えていた。
何千人もの難民が街を歩き、
元々の住民と自然に混ざり合っている。
疲れた眼差し。
忙しく動く手。
――だが、皆、生きている。
公爵領の働きと、
ルシアンだけが持つ情報のおかげで。
城の大階段の下で、母が待っていた。
ソフィアは彼の姿を見るなり駆け寄り、
息が詰まるほど強く抱きしめた。
「……無事で……」
まるで一か月分の不安を、
その一言に込めたかのようだった。
ルシアンは静かに抱き返した。
無事だと説明する必要はなかった。
数歩後ろでは、アルベルトが黒い金属箱を黙って運んでいる。
緊急用の空間転移アーティファクト。
二つ一組の、伝説級の遺物。
使用は一度きり。
最大五人。
小領地一つを買えるほどの価値。
その存在を知るのは、ソフィアとアルベルトだけ。
それでも――
彼女は毎日、息子が帰らない未来を恐れていた。
「ただいま、母さん」
彼女は少し離れ、
涙を浮かべたまま彼の顔を両手で包み込んだ。
「即位の儀は一週間後よ。
誓約のために、諸侯たちはもう集まっている。
……あなたの帰りを待っていたの」
ルシアンの背筋に、冷たい感覚が走った。
公爵の誓約は、形式ではない。
それは――生と死を分ける契約。
彼は公爵領と王国を守ると誓い、
諸侯たちは最後の息まで忠誠を誓う。
その重みは、物理的に肩にのしかかるほどだった。
自室に戻ると、
イザベラが待っていた。
ほとんど何も隠さない薄衣に身を包み、
自信に満ちた温かな眼差し。
親密さにまだ不慣れな彼とは、対照的だった。
彼女は微笑む。
「おかえりなさい、ミロード」
ルシアンは喉を鳴らし――
二人の距離は、自然と消えた。
彼は石ではない。
決して。
死と緊張、責任に晒され続けた数週間の後では、
人の温もりは抗えないものだった。
挨拶は交わされ――
親密さは、必然のように訪れた。
扉は、偶然にも半開きだった。
アデラは小さな笑みを浮かべ、階段を上ってきた。
旅の間、毎晩そうしてきたように、
彼のそばで眠るつもりだった。
手を取り、
呼吸を感じ、
それで安心する――
彼女にとっての儀式。
だが、目にした光景が、彼女を凍りつかせた。
イザベラとルシアンが、あまりにも近くにいる。
絡み合う身体。
肌と肌。
柔らかな吐息。
彼女が理解できない、規則的な動き。
アデラは目を見開き、
頬を林檎のように赤く染めた。
共に在ること、戦うこと、結びつくことしか知らない彼女には、
それは未知で――混乱する光景だった。
「なにを……して……?」
囁いた声は、震えて途切れた。
理解はできなかった。
だが――
邪魔をしてはいけないことだけは、分かった。
彼女はすぐに後ずさり、
音を立てずに扉を閉めた。
怒ってはいない。
ただ……恥ずかしくて。
分からなかっただけ。
震える手で唇に触れ、
今見た“近さ”の正体を考えようとする。
名前は分からない。
ただ――
邪魔をしたくなかった。
そして、静かに廊下を去っていった。
ルシアンと出会って以来――
初めて、
何をすべきか分からなくなった。
*
公爵ダグラスの即位広場
ダグラス公爵領の中央広場は、もはや見慣れた姿ではなかった。
難民、職人、兵士、貴族、農民――
何千、いや何万もの人々が、広場の隅々まで埋め尽くしていた。
濃い緑色の旗が、ダグラス家の象徴である狼の紋章を染め抜かれ、バルコニーの上で風に揺れている。
内側の城壁は生きた葉に覆われていた。
ルシアンが導入した植物群は、都に古代的で、どこか神聖な空気を与えていた。
広場の中央、儀式用の高台の上には、
血と時に黒く染まった一領の鎧が安置されていた。
――ローレンス・ダグラス公爵の鎧。
それは王国そのものよりも古い伝統だった。
新たな公爵が立つ前に、
すべての貴族が、倒れた公爵へ敬意を捧げる。
ダグラス家の公爵が老衰で死んだ記録など、誰も覚えていない。
それは、この血筋に許された運命ではなかった。
彼らは常に――
剣を手に、先に逝く。
最初に進み出たのはアルベルトだった。
彼は鎧の前に膝をつき、
兜を静かに胸元へと置いた。
言葉はない。
敬意だけ。
歴史だけ。
貴族たちは、一人、また一人と同じ動作を繰り返した。
最後の貴族が立ち上がったとき、
広場は完全な静寂に包まれていた。
子供ですら、息を潜めている。
そこで、 herald(伝令)が声を張り上げた。
「――ダグラス公爵領の継承者、ルシアン・ダグラス、入場!」
ルシアンは儀式台の中央へと歩み出た。
深緑のマントが石床をかすめる。
三万人の視線が、
一斉に彼へと注がれていた。
押し潰されそうになる。
マントの重さではない。
名前の重さだ。
義務の重さ。
父の鎧の前に立った瞬間、胸が締め付けられた。
実際に父を知っていたわけではない。
だが、その遺した“重み”が、確かに彼を貫いた。
軍務司祭が一歩前に出る。
「ルシアン・ダグラス。
ローレンス公爵の子よ。
この民の前で、
この大地の前で、
この命を守る城壁の前で――
見返りを求めず、己の命、剣、魂のすべてを、この公爵領に捧げると誓えるか」
ルシアンは、ゆっくりと息を吐いた。
「誓います。
我が民のために。
倒れた者たちのために。
今、生きる者たちのために。
そして、明日生まれる者たちのために」
ざわめきが、風のように広場を巡った。
ため息のような、
集合した鼓動。
――そして、起こるはずのないことが起きた。
ソフィア・ダグラス。
王にも、王子にも、将軍にも、神殿にも、
決して頭を下げなかった公爵夫人が、前に出た。
彼女は息子の前に立ち――
膝をついた。
どよめきが、喉を詰まらせた咆哮へと変わる。
前例など、存在しない。
彼女の声は震えていた。
だが、それは恐怖ではない。
「我が公爵――」
頭を垂れ、彼女は言った。
「この身のすべてをもって、
命と名誉を賭して、
最も忠実なる臣下として、あなたに仕えることを誓います」
ルシアンの鼓動が、耳鳴りのように響いた。
冷たく。
混乱し。
恐怖すら覚える。
――力ではない。
この行為が示す、
責任の重さに。
貴族たちが、次々と跪いた。
次は騎士。
次は兵士。
そして――
民すべてが。
何万という人々が、
一つの生き物のように、
天に届かんとする一つの息として膝をつく。
咆哮が生まれた。
「――ダグラス公爵に永遠の栄光を!」
「――公爵領の守護者に栄光を!」
「――ルシアンに栄光を!」
その声は、山々を揺らすかのようだった。
ルシアンは――
何を感じるべきか、分からなかった。
誇り。
恐怖。
希望。
疑念。
すべてが混ざり合い、胸を締め付ける。
(――俺は、これに相応しいのか?)
その問いだけが、
歓喜に包まれた広場の中で、静かに浮かび続けていた。
公爵領は、緑の空の下で、確かに息づいていた。
家々を覆う植物だけではない。
マナそのものが、生きて世界の律動を変えている。
ルシアンは城の回廊を歩いていた。
影のようにアデラが付き従い、
サグムス神の司祭――
枯れ枝のように痩せた男が、
次なる誓約の儀式を準備していた。
物語は、
まだ終わっていなかった。
即位からすでに数週間が過ぎていた。
それでも、公爵としての仕事が終わる気配はなかった。
公爵領の貴族たちは、日を分け、列を成して城を訪れ、血の誓約を交わしていく。
それは伝統。
それは法。
そして――ダグラス家の権力の根幹だった。
ルシアンは……
ようやく、その重みを理解し始めたところだった。
司祭が黄金の粉で円陣を描く。
下級貴族――ケリル男爵が跪いた。
「真理の神サグムスに誓います」
震える声で、男爵は告げる。
「ルシアン・ダグラス公爵に、絶対の忠誠を捧げると」
司祭は男爵の手のひらを切り、二滴の血を杯に落とし、古い詠唱を囁いた。
次の瞬間、男爵の前腕に光の紋が灯る。
皮膚の下で、輝く縄が結ばれるように。
――契約成立。
一方的な誓約。
縛られるのは彼だけ。
公爵は、何も負わない。
それが、ダグラスの伝統だった。
ルシアンは深く息を吸った。
重かった。
だが、表情には出さない。
母ソフィアは、何度も彼に言っていた。
「心配しなくていいわ、ルシアン。
まだ、全部を背負う必要はない。
私が、ここにいるもの」
その言葉通り、ソフィアは今も実質的な統治を担っていた。
謁見をこなし、争いを裁き、資源を配分し、荒廃した領土を再編する。
ルシアンは――
鍛え、学び、観察していた。
アルベルトによる過酷な戦闘訓練と戦場医療。
アデラは常に彼の傍にいた。
まるで、彼が消えてしまうのを恐れるかのように。




