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「鋼、血、そして誇り」

朝は穏やかに過ぎていた。

しかしエミリーは、城の廊下を上の空で歩きながら、胸の奥に居座る重たい違和感を振り払えずにいた。


前夜、ルシアンから「三日後に公爵領へ発つ」と告げられて以来、感情の整理がつかなかったのだ。


――慣れてしまっていた。

彼の存在に。

彼が放つ、言葉にしがたい静かな安心感に。


そして今、彼が去ると知って――

胸の下あたりに、空白のような、ほとんど痛みに近い感覚が残っていた。


エミリーはため息をつき、ルシアンと護衛たちが滞在している翼廊へと続く回廊を曲がった。

その時、不意に耳に届いた音に足を止める。


――鋼と鋼がぶつかる音。


剣戟の規則正しい衝突音。

そして、それに重なる女性の声――

エミリーが“熱意”と結びつけたことのない声だった。


「いけます、我が主! 今度こそ勝てます!」


……アデル?

エミリーは思わず瞬きをした。


アデルが、応援している?


それは、彼女が最近になってようやく知った一面だった。

ルシアンのこととなると、彼女は別人のようになる。

他のすべてが、消えてしまうのだ。


エミリーは気配を殺し、訓練場を覗き込んだ。


そこにいたのは――


王国最強の剣士、アルベルト。

獣のような鋭さを帯びた動きで剣を振るっている。


そしてその正面に、ルシアン。

一か月前とは比べものにならないほど洗練された剣筋。

それでもなお――明らかに、力の差はあった。


「はあっ!」


アルベルトの突進。

ルシアンの剣は容易く弾かれ、衝撃に吹き飛ばされる。


数歩後退し、地面に転がり、すぐに立ち上がる。

そして、再び斬りかかる。


何度も。

文句ひとつ言わず。

休止も求めず。


エミリーは見つめながら、攻防のたびに、転倒のたびに、荒々しい衝突のたびに、眉を強くひそめていった。


――なぜ、あそこまで?

――彼は部下でしょう?

――どうして、あんなに強く打つの?

――そして、なぜルシアンは、それを受け入れているの?


次の瞬間。


アルベルトは剣を止め、流れる動作のまま拳を突き出した。

ルシアンの顔面へ――


バキッ。


鈍い音。

ルシアンの口元から血が飛び散った。


アデルの声が、ぴたりと止まる。


彼女と白虎の周囲の空気が、文字通り凍りついた。

白い獣はマナを纏い、地面の砂と小石が舞い上がる。


エミリーは、気づけば走り出していた。


ルシアンの前に膝をつき、両手で彼の顔を包み、光の下へ向ける。

血が、唇を伝っていた。


「ル、ルシアン……」

声が震える。

「大丈夫……?」


距離が、近すぎた。

あまりにも。


その脇で、アデルは完全に怒りを露わにしていた。


「やりすぎです、アルベルト!」

槍を構え、一歩踏み出す。


白虎が低く唸り、空気が震えた。


だがアルベルトは、微動だにしない。

ただ、面倒くさそうに息を吐くだけだった。


次の瞬間、ルシアンが手を上げる。


「待て」

怒りの欠片もない声。

「邪魔するな。ただの訓練だ」


エミリーは信じられない、という表情で彼を見た。


――ただの訓練?

顔が割れかけたのに……。


それでも彼女は、光属性の魔法を起動した。

マナを流し、丁寧に傷を塞ぐ。

その途中、親指が無意識に彼の頬をかすめた。


アルベルトは距離を取り、闇魔法の師・ガレットの隣に腰を下ろす。

ガレットが横目で彼を見る。


「……少し、やりすぎだ」


アルベルトは笑った。


「見ていろ」


二人の視線は、エミリーがまだルシアンの顔を両手で支え、治療に集中している光景へと向けられた。


治療が終わると、エミリーはアルベルトを睨みつける。

その目には、露骨な嫌悪があった。


そして再び、ルシアンを見る。


「そ、そんなに無理しないで……」

「部下でも、あんな殴り方……訓練でも、敬意が必要だと思います……」


ルシアンは、穏やかに微笑んだ。


――でも、なぜエミリーは駆け寄ってきた?


「平気だ。手を抜けない。

前に進むなら、これくらい耐えないと」


エミリーの心臓が、大きく跳ねた。


彼の目を見つめ――

その瞬間、自分がまだ彼の顔を掴んだままだと気づく。


「っ!」


彼女は飛び退き、夕焼けのように真っ赤になった。


「り、両親が……あなたに話があるそうです!」

「終わったら、来てって……!」


そう言い残し、エミリーはほとんど逃げるように訓練場を後にした。


アデルは対照的に、まったく焦ることなく近づいた。

この世で最も真剣な表情でルシアンを点検し、顔から首元まで、一寸の見落としもないように視線を走らせる。


そして、顔を上げてアルベルトを見た。


鋭い視線。

殺意を帯びた視線。

不幸の予告そのもののような眼差し。


アルベルトは、それを見なかったことにした。



別れの日の夜明けは、澄み切った空とともに訪れた。

空は淡い青光に染まり――それは周囲のマナ濃度がさらに上昇している証でもあった。


中央広場に立つルシアンは、新たに編成された郡の兵たちを最後に見渡していた。

わずか一か月で、彼らは驚くほど成長した。

だが、道のりはまだ長い。


自分にできることは、すべてやった。

あとは、彼ら自身の規律と意志に委ねられる。


背後では、保管用の馬車――食料保存用の魔導具とともに――が開かれたまま並んでいた。

三か月分の物資。

穀物、保存肉、浄化水。

すべて、郡に残されるものだ。


ルシアンは、それらを持ち帰らない。


彼の改革により、もはや郡は外部の農地だけに依存する必要はなかった。

城壁の内側には保護された大規模な耕作地が整備され、さらにこの世界では前例のない仕組み――

《アーケイン温室》が導入されていた。

それは、かつて彼がプレイしていたゲームの後期技術を応用したものだった。


伯爵とその側近たちは、今なおその光景に目を見張っている。


家屋や塔、倉庫の屋根には、マナ蔓草マナヴィドが広がっていた。

厚い葉と栄養価の高い果実を持ち、増大したマナの流れによって旺盛に育つ植物だ。

高所の支柱に絡みつき、翡翠色の緑が街全体を覆っている。


遠目には、都市など存在しない。

あるのは、城壁を抱く密林だけ。

見張り塔がなければ、三万人が暮らしているとは誰も気づかないだろう。


ルシアンはその光景を、満足と郷愁の入り混じった表情で眺めた。


ゲームでは、これらのシステムは導入が遅すぎた。

人々が外で農作も狩猟もできなくなってからでは、手遅れだった。

都市は次々と陥落し、

人を最も多く殺したのは、怪物ではなく――飢えだった。


だが、ここでは違う。

まだ、歴史を変えられる。


公爵領へ戻る馬車は、すでに準備を終えていた。

そのそばでアデルが、槍のように背筋を伸ばして立っている。

ダグラス家特有の、揺るがぬ表情で周囲を見渡していた。


ルシアンが出立のために一歩踏み出そうとしたとき――

馬車の扉の前に、エミリーの姿を見つけた。


俯いた視線。

絡められた指先には、はっきりとした緊張が宿っている。


初めて会った、あのぎこちない晩餐会から数週間。

彼女は別人のようだった。

より強く、より自覚的に――そして、より迷っている。


二人の間に、沈黙が落ちる。

長い沈黙。


エミリーは深く息を吸い、何日も心の中で繰り返してきた言葉を探した。


「……どうか、お気をつけて」


視線を上げないまま、そう呟く。


「もちろん。君も」


ルシアンの返事は、柔らかかった。


再び、沈黙。

どう扱えばいいのか、互いに分からない別れ。


そして――

何の前触れもなく。


エミリーは一歩踏み出し、ルシアンのマントの襟を掴み――

口づけた。


ためらいのないキス。

奪うようでもなく、迷いでもない。

決意に満ち、同時に恐れを孕んだキス。


ルシアンは驚かなかった。

だが、胸の奥が張り詰める。


唇の感触ではない。

その意味が、重かった。


彼女は、遊んでいない。

迷っていない。


動けなかった。


婚約の日にも、口づけはあった。

だが、あれは形式だった。

政治的な儀礼にすぎない。


これは――現実だ。


唇を離したエミリーは、頬を紅潮させ、目を逸らさずに言った。


「ごめんなさい。でも……私は、自分を捨てない」

拳を握りしめる。

「私は、あなたの婚約者です。

その場所を、必ず取り戻します。

たとえ……エリザベス王女が、もうあなたの心を占めていたとしても」


ルシアンは、ゆっくりと息を吸った。

今は、答えられない。


数歩歩き、彼女の視線を思い出す。


――これを“始まり”だと思わせたら、

――明日には、別の誰かがそれを理由に踏み込んでくる。


欲望だけで動ける立場ではない。

誓約、血筋、命。

たった一つのキスが、すべてを絡め取る。


エミリーは馬車の扉に手をつき、荒い呼吸をしていた。

ルシアンは何も言わない。

英雄的な言葉は、今は必要ない。


彼女は一歩下がり、道を空けた。


ルシアンは、振り返らずに馬車へ乗り込んだ。


――だが、見ている者はいた。


半ば再建された塔の影。

そこに潜むアレハンドロは、怒りに染まった目でその光景を睨んでいた。

剣の柄を握る手が震え、鼓動は戦鼓のように鳴り響く。


馬車が、動き出す。


それとともに――

アレハンドロの憎悪は、また一段、深くなった。

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