表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
130/188

「義務と想いの狭間で」

夜は、カーター伯爵領の城を静かな外套のように包み込んだ。


ルシアンは戦いと命令、そして自分だけが知る未来の重さに疲れ切り、自室へと向かった。

アデルは三歩後ろを歩く。その足音はなく、まるで床の上を滑っているかのようだった。


扉を閉めた瞬間、いつもの光景が始まる。


アデルは無言のまま前に出た。

槍を壁に立てかける。

精霊灯を灯す。

温かい水を用意する。

室温を確かめる。

夜着をベッドの上に整える。


その動きは柔らかく、ほとんど儀式のようだった。


二人きりになると、アデルはいつもこうだ。

厳格で、完璧で……そして、不思議なほど近い。

献身的な侍女であり、規律ある戦士であり……

それ以上の何かを、自分自身でも理解していない存在。


ルシアンが腰を下ろすと、彼女は膝をつき、靴を脱がせようとした。


「アデル……」

彼は止めようとした。「そこまでしなくていい」


彼女は顔を上げた。凛とした表情が、一瞬だけ淡い紅に染まる。


「……務めです」

小さく囁く。

「いえ……義務、ではありません。公爵夫人様から、そう教わりました」


そう言って、何か言い過ぎたかのように視線を落とした。


ルシアンは小さく息を吐いた。

議論しても無駄だと分かっていた。

幼い頃からずっと、彼女はこうだった。


アデルにとって、彼に仕えることは仕事ではない。

それは“自分自身”の一部だった。


彼が横になると、彼女は灯りを消し、

伯爵領に来てから毎晩のようにそうしているように、静かに同じベッドへ滑り込んだ。


何かを求めるためではない。

触れ合いを求めるためでもない。


ただ、彼の手を取るため。

それだけで、生きていられるかのように。


ルシアンは、彼女の頬が自分の腕に触れるのを感じた。

柔らかな温もり。

緊張で少し早い呼吸。


「アデル……本当に、ここで寝なくていい」


彼女は、かすかに震えた。


「離れて眠ると……守れなかった気がしてしまうんです」


それだけではない。

ルシアンには分かっていた。


少しでも感情に敏感な者なら、誰でも気づくだろう。


だが、アデルは――

あまりにも純粋だった。

危ういほどに。


彼女が身を寄せるたび、ルシアンは思う。

白虎の大きな蒼い瞳と同じ光が、彼女の瞳にも宿っていると。


絶対的な献身。

条件のない忠誠。


そして、ふと考えてしまう。


(元のルシアンは……なぜ彼女を愛さなかった?

美しく、勇敢で、命を懸けるほど忠実なのに。

……いや、もしかしたら。

物語に語られなかっただけなのかもしれない)


その考えは、雷のように脳裏を貫いた。


(もし、彼女の忠誠が“義務”だけではなかったとしたら……?)


アデルは無垢に彼の腰に腕を回し、胸に顔を埋めた。


「おやすみなさい……ご主人様」


自分でも理解していない優しさで、そう囁く。


ルシアンは答えず、目を閉じた。


アデルと眠ることは――

危険だった。


彼自身の感情にとっても。

そして、彼女が信じている“世界”にとっても。


ソフィア・ダグラスに育てられたアデルは、

古い価値観の中で生きてきた。


「主には、命と……心を捧げるもの」


だから彼女は、

寄り添うこと

手を取ること

同じベッドで眠ること


それらすべてが、

“当然の絆”だと信じていた。


優しい怪物の傍で育った少女。

世界をまだ知らず、

自分はもう、彼のものなのだと疑いもしないまま――。


翌朝、主広間で朝食をとっている最中、エミリーは思わずアデルに視線を向けていた。


若きダグラス家の少女は、いつも通りルシアンの数歩後ろに立っている。

静かに、注意深く、命じられずとも細部にまで気を配る。

その傍らでは白虎が身を伏せ、穏やかな呼吸を保ちながらも、瞳だけは常に周囲を警戒していた。


その光景――

あまりにも完璧な“同調”が、エミリーの心を落ち着かせなかった。


やがて彼女は、少し身を乗り出してルシアンに囁いた。


「ルシアン……」

「あなたたちの関係って、何なの?

ただの護衛と主従、というだけじゃないわよね。もっと深い……そうでしょう?」


ルシアンは小さく息を吐き、カップをテーブルに置いた。

予想外の質問ではなかった。

ただ――避けられないものだった。


「そうだ」

穏やかな声で答える。

「アデルとは、もう長い。彼女が八歳の時からだ」


その頃、彼女の村は魔獣に滅ぼされた。


高位の雌虎――

すべてを蹂躙し、何も残さなかった。

アデルだけが、家の残骸の下に身を潜め、生き延びた。


エミリーは思わず視線を伏せ、震えをこらえる。


「そこへ、母が遠征中に辿り着いた」

ルシアンは続けた。

「サンダーに乗り、守護獣を伴ってな」


その魔獣は、母の手で討たれた。


彼は、ほんのわずかに微笑む。


「だが、母はそれ以上のものを見つけた。

……子供だ」


「白虎の幼体。

エプシロン適性を持つ、いずれ“生ける災厄”になる存在だった」


エミリーは目を見開いた。


「……それを、アデルに?」


ルシアンは頷いた。


「同時に、母は気づいた。

アデルが魔獣調教においてガンマ適性を持っていることに」


「完璧な組み合わせだった。

それから二人は共に育った……最初は、ゆっくりとだ」


「母は虎の成長を制御し、アデルが扱えるようにしていた。

だが――今は違う」


「マナ現象の影響で、制限は消えた。

レベルは、数週間で五十二から六十へ跳ね上がった」


エミリーは遠くからアデルを見つめた。

少女は白虎の毛並みを、まるで自分の魂を撫でるかのように撫でている。


「……だから、彼女はあなたに仕えるの?」

エミリーは静かに尋ねた。


ルシアンは視線を落とした。


「母は彼女に言った。

“お前の使命は、彼を守ることだ。命尽きる、その日まで”と」


「アデルは、それを誓いとして受け取った。

義務としてではなく……」


エミリーは、胸の奥に小さな痛みを感じた。


戦場ではあれほど強く、

ルシアンの前ではあれほど臆病な少女。


まるで彼の存在そのものを糧に生きているかのように、

常に彼を見つめている。


それは誓約以上のもの。

約束よりも古いもの。


絶対的な忠誠。

言葉にされない慈しみ。


そして――

アデル自身が、まだ理解していない愛。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ