同盟に生じた亀裂
カーター領に滞在していた数週間で、ルシアンはこの地の軍を別物へと変えていた。
かつては統制の取れていない衛兵、即席の狩人、武器を持っただけの農民の寄せ集めだった部隊は、
今や明確な構造を持つ軍事組織として形を成し始めている。
彼の直接指揮のもと、新たな部隊編成が生まれた。
重装甲と大型盾を装備した強襲部隊。
凶悪な突進型魔獣を正面から受け止めるために設計された部隊だ。
領内にわずかしか存在しない魔術師たちに、ダグラス家の魔術師三名を加えた魔法支援部隊。
長距離から高密度のマナを撃ち込むことが可能だった。
迅速かつ軽装の即応防衛班。
民間人の避難誘導や、城壁の破損箇所を即座に封鎖する役割を担う。
そして、隠密行動に長けた斥候部隊。
森に起こる魔獣の変異を察知し、その行動パターンを予測する専門家たちだ。
彼らは夜明けから日没まで訓練を続けた。
かつて贅沢品だった規律は、今や空気そのものに染み込んでいる。
ルシアンは隊列の間を歩き、姿勢を正し、戦術を修正し、何度も繰り返した。
「魔獣相手では――剣よりも、連携の方が強い」
観覧席からその光景を見つめるダニエル伯爵は、ただ圧倒されていた。
「君の領地は、王国でも屈指の備えを持つことになる」
ルシアンは声を荒げることなく、そう断言した。
ダニエルは唾を飲み込む。
「……借りが、増えすぎたな」
感謝と、わずかな羞恥を滲ませた呟きだった。
つい最近まで、彼は感情的な理由でルシアンにわだかまりを抱いていた。
それでも、この青年は今、彼の故郷を救っている。
一方で、ダグラス家の兵は後方に控えていた。
訓練に直接参加することはなく、
彼らの魔術師だけが実戦を想定した制御魔法を放ち、圧力を与えていた。
ダグラスの騎士たちは遠くから状況を見守り、
制御不能になれば即座に介入できる態勢を保ちつつも、
あえて前に出ることはなかった。
ルシアンははっきりと言っていた。
「彼ら自身が守る力を持たなければ意味がない。
過保護にすれば……本番で必ず死ぬ」
誰一人、反論できなかった。
そしてその判断があったからこそ――
レベル五十五以上の魔獣が、咆哮と共に森から現れたその日。
領軍の兵たちは、逃げなかった。
散り散りにもならなかった。
混乱に陥ることもなかった。
ルシアンに教えられた通り、陣形を組んだ。
後方ではダグラス家の魔術師たちが魔法陣を展開する。
斥候たちは内壁へと駆け上がり、突進ルートを確認。
強襲部隊は盾と槍を地面に突き立てた。
魔獣が森を抜ける前から、大地が揺れた。
巨大な影、張り詰めた肉体、野性の知性を宿す眼光。
レベル五十五。
レベル五十七。
レベル六十。
農村領には明らかに過剰な敵。
――それでも。
カーター領の兵は、退かなかった。
「第一列、構えを崩すな! 踏ん張れ!」
隊長の号令が飛ぶ。
衝突は凄まじかった。
爪が盾を打ち、衝撃に男たちは震えたが、耐えた。
一瞬――可能性があるように見えた。
だが、それは長く続かなかった。
荷車ほどの大きさの魔獣が右翼の陣形を粉砕し、
別の一体が盾を跳び越えて二人の槍兵に襲いかかる。
悲鳴。血。混乱。
城壁の上から、ルシアンは冷徹な速度で戦況を分析していた。
(――まだ足りない。このままでは、全滅する)
隣でアデラが槍を構える。
白虎も全身の毛を逆立てていた。
だが、ルシアンは手を上げた。
「お前は動くな。位置を維持しろ」
即座に、彼女は頷いた。
彼女は護衛。任務は、彼を守ることだけだ。
ルシアンは城壁全体に響く声で命じた。
「ダグラス魔術師隊、前進!
範囲減速――今だ!」
背後で三つの魔法陣が輝き出す。
ルーンが次々と点灯し、溢れる太陽のように輝いた。
「――Ṃȳr=カール・ヴェル!」
一斉詠唱。
青いマナの波動が爆発するように広がり、
魔獣たちの動きが、見えない重力に縛られたかのように鈍る。
「領軍、秩序ある撤退!
街へ入れ! 陣形を崩すな!」
命令は即座に伝達され、
兵たちは汗と恐怖に震えながらも、一歩ずつ後退した。
もはや、ばらばらの農民ではない。
崩壊せずに退くことができる、兵士たちだった。
そして――
魔獣たちが、再び飛びかかろうとした、その瞬間――
ルシアンは片腕を高く掲げた。
「――ダグラス騎士団、前進!」
西門から、公国軍が鋼の奔流となって突入した。
二百を超える精鋭部隊。
その一人一人が、平均を大きく上回る実力者。
突撃と同時に、大地が震えた。
ダグラスの盾が魔獣へと叩きつけられ、圧倒的な衝撃が走る。
強化された槍が、硬化した皮膚を容易く貫いた。
後衛では、公国の魔術師たちが陣を保ち、
マナ弾と即席の防御障壁を次々と展開し、敵の反撃を逸らしていく。
アデラはルシアンの背後に位置取り、
一歩でも近づく敵がいれば、即座に仕留める覚悟で構えていた。
「……これで十分だ」
ルシアンは、自軍が外科手術のような精密さで敵を処理していく様子を見つめながら、低く呟いた。
「今日は、無駄な犠牲は出させない」
十五分も経たないうちに、戦況は完全に逆転した。
三十分後には、魔獣たちは死体となるか、森へと逃げ帰っていた。
戦場に、重い静寂が落ちる。
血と焦げた土の匂いが、空気に濃く漂っていた。
ルシアンは城壁を下り、負傷者の間を歩く。
アデラは忠実な影のように付き従い、白虎は周囲を警戒している。
「負傷者を医療所へ運べ」
ルシアンは冷静に指示を出した。
「治癒魔術師は、すぐに戦線復帰できる者を優先しろ」
疲弊しきったダニエル伯の兵たちは、
尊敬と、わずかな羞恥を入り混ぜた視線で彼を見つめていた。
ルシアンは、それを受け止めるように言った。
「今日のお前たちは、できる限りのことをした。
世界が変わったのは、お前たちの責任じゃない。
そして世界は……準備が整うまで待ってはくれない」
ダニエル伯は、強く拳を握り締めた。
「ルシアン……感謝する。
君の兵がいなければ、虐殺になっていた」
だが、ルシアンは首を横に振る。
「まだ、祝う段階じゃない。
これはただの試験に過ぎない」
その声は、冷たく、揺るぎなかった。
「――本物の魔獣は、これから来る」
ダニエルから、最前列に立っていた最年少の兵士に至るまで。
全員が、魂を撫でられるような悪寒を覚えた。
それは、恐怖だった。
そして同時に――
これから始まる“本当の戦争”の予感だった。




