「救済者の食卓にて」
夜は、疲れ切った吐息のようにカーターの首都へと降りてきた。
混乱と恐怖、そして飢えの果てに――城は温かな灯りに包まれ、まるで奇跡のように輝いていた。
ルシアン・ダグラスが大食堂の敷居を越えた瞬間、
使用人たちは一斉に身をかがめた。
天井の高い大広間。
柔らかなマナ灯のシャンデリア。
新しく張り替えられた白いテーブルクロス。
その場は、即座に静まり返った。
伯爵夫妻の正面、
主座はすでに整えられていた。
――彼のために。
礼儀だからではない。
序列ゆえに、だ。
彼はダグラス公爵家の後継者。
ローレンスの死により、正統な次期公爵でもある。
さらに彼が率いてきた軍勢――二千の兵士。その全員が、伯爵領の平均戦力を遥かに上回る精鋭だった。
ダニエル・カーターが擁する千二百の兵など、比べるまでもない。
この卓で、誰が最上位か。
疑う余地はなかった。
ルシアンはそれを当然のこととして受け入れ、静かに腰を下ろす。
右隣にエミリー。
正面にエマ・ピアース伯爵夫人。
その隣にダニエル。
そして、卓の端――まるで忘れ去られた飾り物のように、アレハンドロ・ジョーンズ。
夕食は、包囲戦の後とは思えぬほど贅沢な温かい料理から始まった。
柔らかなパン。
香り立つスープ。
過剰なマナを中和する調理法で仕上げられた、低位魔獣の肉。
空気は穏やかで、
どこか現実離れしていた。
エマ伯爵夫人は心からの笑みを浮かべ、ときおりルシアンに向けて、
まるで母親のような温かな視線を送る。
「ルシアン様」
感謝に満ちた声で、彼女は言った。
「我が民のため、そして娘のためにしてくださったすべてに……言葉もありません。あなたの到着は、まさに天からの祝福でした」
ルシアンは軽く頭を下げて応じる。
「当然の務めを果たしたまでです、奥方。カーター領はダグラス公爵領の同盟地。手をこまねいているわけにはいきませんでした」
エマは胸に手を当てた。
「それでも……想像していた以上に、あなたは心を尽くしてくださいました。エミリーから、道中で民を守った話を聞いております。あのように振る舞える貴族は、そう多くはありません」
エミリーは思わず水を飲みかけ、むせそうになった。
頬に浮かぶ赤みは隠しようもない。
ルシアンは、ほんのわずかに――
小さく、誠実な笑みを浮かべた。
「私たち貴族は、称号の下にあるものを忘れがちです。……けれど、その下にいるのは同じ“人”です。置き去りにすることはできませんでした」
エマは感嘆の息を漏らす。
「我が未来の婿は、なんと高潔な魂をお持ちなのでしょう」
エミリーが口を開く。
「お母様……」
だが、伯爵夫人は止まらない。
「ダグラス公爵領は、あなたのような方を戴けて幸運です、ルシアン様。……このような指導者であれば、人は最も深い闇の中でさえ、ついていくでしょう」
ダニエル・カーターはうなずいた。
必死に隠そうとしていたが、その眼差しには、予想外の敬意が宿っていた。
この街は――
彼によって救われた。
その事実は、どんな礼法よりも雄弁だった。
卓の端で、アレハンドロ・ジョーンズはカトラリーを強く握りしめた。
指の関節が白くなるほどに。
感謝の言葉一つひとつが、毒のように胸へ落ちる。
ダグラスの高潔さを讃える声が、胃をかき乱す。
――未来の婿。
――高潔な指導者。
――祝福。
言葉の一つ一つが、
金槌のように、彼の脳裏で反響していた。
伯爵夫人が、まるで英雄を見るかのような眼差しでルシアンに微笑んでいる間――
アレハンドロの目には、別のものが映っていた。
怪物だ。
ダグラスという姓は、彼の故郷を滅ぼした影。
叫びと血の残響として、家族すべてを奪っていった名。
エミリーが彼に微笑むのを見ること。
主である伯爵が、敬意をもって語りかけるのを見ること。
街全体が、彼を称えている光景を見ること。
そのすべてが、アレハンドロの血を煮え立たせた。
ほとんど気づかれないほど微かな、しかし黒い思考が、ひび割れのように芽生える。
――いっそ、街は滅びてしまえばよかった。
自分でもぞっとする考えだったが、彼はそれを否定しなかった。
これほどの怒りを覚えたことは、今までなかった。
これほど強く、世界が間違っていてほしいと願ったことも。
やがて、ルシアンが去った後、食堂の扉は静かに閉じられた。
使用人たちは訓練された影のように散り、
先ほどまで温かく儀礼的だった空気は、一転して重く沈んだ。
アレハンドロは椅子に残り、膝の上で拳を強く握りしめていた。
穏やかな笑みで婚約者を見送ったエミリーは、その様子に気づく。
それは彼が、感情を抑えきれなくなる直前に見せる、よく知った仕草だった。
「アレハンドロ……」
彼女は小さく息を吐き、「話せる?」と続けた。
返事はない。
彼は立ち上がり、側廊のテラスへ向かって歩き出す。
エミリーも後を追った。
使用人の気配が遠のいてから、アレハンドロは口を開いた。
「分からないのか?」
低く、震える声だった。
「あんな男を……簡単に信じるべきじゃない!」
エミリーは一瞬、目を閉じた。
――予想していた言葉だった。
「アレハンドロ」
柔らかく、しかし揺るがぬ声で言う。
「あなたのご両親のことが起きた時、ルシアンはまだ子どもだった。何も知らない可能性の方が高いわ」
アレハンドロは振り返り、怒りに染まった目で彼女を見た。
「本気で言ってるのか……? 君が?」
胸を押さえる。その場所が、焼けつくように痛む。
「エミリー、俺たちは歩けるようになる前から一緒だった。ずっと、支え合ってきた! それなのに……今は、あいつを庇うのか?」
エミリーは冷静さを保とうとした。
だが、その瞳には確かな悲しみが宿っている。
「私は、公平でいようとしているだけ」
静かに答えた。
「そして……あなたに正直でいたいの」
アレハンドロは舌打ちし、顔を背ける。
「結局、友情なんて称号以下か」
苦々しく呟く。
「完璧な後継者様の方が、大事なんだな」
空気が張り詰めた。
エミリーは一歩、彼に近づく。
「アレハンドロ……ルシアンは、私の婚約者よ」
穏やかだが、言葉一つ一つに痛みがあった。
「あなたの気持ちを楽にするために、彼と敵対することはできない。したくない」
一度、深く息を吸う。
「あなたとの友情を終わらせたいわけじゃない。あなたは大切な人よ。でも……私を追い詰めるなら……」
喉にできた結び目を飲み込み、続けた。
「私は選ぶことになる。ルシアンは、私の夫になる人だから」
アレハンドロは、足元の地面が崩れ落ちたかのような表情をした。
「……そうか」
かすれた声で呟く。
「――それが答えなんだな」
「ええ……」
エミリーは視線を落とし、肯定した。
長い沈黙が流れた。
共有した過去、幼い頃の笑い声、秘密の囁き――
そして、もう二人のものではない未来が、その間に横たわる。
やがて、アレハンドロは一歩下がった。
「分かった」
何も分かっていない声音で言う。
「もう……この話はしない」
踵を返し、去っていく。
エミリーは引き止めなかった。
今止めれば、すべてが壊れると分かっていたから。
廊下を遠ざかる彼の影は、どこか小さく縮んで見えた。
――ゲームの中では、ここが分岐点だった。
やがて彼は、光と炎に祝福された英雄としてエミリーと並び、
“魔に堕ちたルシアン”と対峙する存在になる。
だが今は――
その未来が、書き換えられつつあった。
どこへ向かうのか、誰にも分からないまま。
*
ルシアンはダニエル伯爵と並び、補強されたばかりの外壁を歩いていた。
数歩後ろにはアデラ。影のように静かだ。
その傍らには、成長した白虎――成獣ほどの大きさ、氷片のような青い瞳で、周囲を人間以上の注意深さで見渡している。
ルシアンの指揮のもと、街はかつてない速度で変貌していた。
第一の城壁から数メートル後方に、
切り出したばかりの石で造られる、分厚く堅牢な第二城壁。
その間では、労働者たちが深い堀を掘り、やがて川の水を引き込む予定だ。
「ここまでの防備になるとは……」
伯爵は呟いた。
その声には安堵と、口に出せぬ恐れが同居していた。
近くでは、エミリーがルシアンの指示を見守っていた。
技師、監督、兵士たちを迷いなく動かす姿は、揺るぎがない。
「……これで、本当に持ちこたえられる?」
彼女が問いかける。
「高位の魔物を永遠に止めることはできない」
ルシアンは声を荒げず答えた。
「だが、時間は稼げる。生き残るかどうかは……準備と時間の問題だ」
エミリーは彼をじっと見つめた。
未来を見てきたかのような確信――それが、どこか不安を誘う。
「第一の壁が崩れても、第二が猶予を与える」
彼はチョークで補強点を示しながら続ける。
「完璧じゃない。だが……確率は上がる」
兵士と農民たちは昼夜を問わず働いていた。
金槌の音、木材の軋み、連携の叫びが、空気を満たしていく。
街は――
再び、生きるために音を立て始めていた。
そして――世界が震えた。
ドンッ。
鈍く重たい轟音が、遠方から響き渡る。
その直後、必死な馬の蹄の音が連なって迫ってきた。
砂埃を巻き上げながら、一隊の巡回兵が街道から飛び出し、正門を全速力で駆け抜けてくる。
男たちの鎧は引き裂かれ、血に染まり、
そのうちの一人は、馬上に留まるのがやっとという有様だった。
「道を開けろ! 領主様への緊急報告だ!」
叫んだのは隊長だった。
ルシアンとダニエル伯爵は、巡回隊が慌ただしく下馬するのと同時に城壁を降りてきた。
隊長は息を切らし、顔面蒼白のまま、主君の前で膝をつく。
「……我が君。新たな魔獣が出現しました。先週のものとは……違います。
あれは……はるかに、上位です」
背筋に、冷たいものが走る。
「……どの程度だ?」
伯爵は、声の震えを必死に抑えた。
隊長は顔を上げた。
その瞳に宿る恐怖が、誇張ではないことを雄弁に物語っていた。
「レベル五十五から六十……。一体ではありません。
……数が多すぎる。まるで……森そのものが、吐き出したかのようでした」
沈黙が、重く、息苦しく場を支配した。
ルシアンは、ほんの一瞬だけ目を閉じる。
――そうだ。
すべては、ここから始まった。
ゲームでも。
世界崩壊の、前触れとして。
「伯爵」
やがて彼は口を開いた。その声音は、周囲の血を凍らせるほど冷静だった。
「――厄災は、まだ始まったばかりです」
アデラは奥歯を噛みしめる。
その隣で、白虎が低く唸り、背の毛を逆立てた。
森の向こうにある“何か”を、本能で感じ取っているかのように。
「兵を即座に整えてください」
ルシアンは続ける。
「城壁の外にいる民は、可能な限り早く避難を。
我々が相手にしているのは、もはや通常の魔獣ではありません……これは、序章にすぎない」
伯爵とエミリーは、言葉を交わさず視線だけを交わした。
――カーター領に訪れた、束の間の安寧。
それは、確実に終わりを告げていた。




