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恐怖のあとに訪れた、ひと息

夕暮れの空気は、ひんやりとしていた。


数日ぶりに、そこには煙も、血の匂いも、恐怖もなかった。

あるのは、湿った土の香りと、街の中で人々が再び動き出す微かなざわめきだけ。


エミリーはルシアンと並んで、要塞の中庭をゆっくりと歩いていた。

二人の背後には城壁がある。魔法の補修跡と、急ごしらえの木材で何とか支えられていたが、もう唸り声も、衝撃音も、叫び声も聞こえない。


初めて――

沈黙が、安らぎに感じられた。


その静けさを破ったのは、ルシアンの何気ない一言だった。


「中庭の井戸、修理しているみたいだな」


エミリーは横目で彼を見る。

予想していた話題ではなかったが……それでも、普通の会話が心地よかった。


「ええ……」

ほとんど囁くように答える。

「包囲の二日目に壊れたの。水を巡って争いまで起きて……まさか、こんな経験をするなんて思わなかった」


ルシアンは静かに頷いた。

「俺は慣れている」などとは言わない。

軍人としての経験で訂正することもない。


ただ、聞いていた。


少し歩いた後、彼が尋ねる。


「昨夜は眠れたか?」


エミリーは深く息を吸った。


「……少しだけ」

以前の夜を思い出し、唇が震える。

「前みたいじゃなかった。叫び声で目を覚ますこともなかった。それだけで……十分」


「それは良かった」


ルシアンの声は、いつもより柔らかかった。


「君は、安心して眠るべきだ」


エミリーは視線を落とす。

貴族が、まるで対等な相手のように話しかけてくる――それは不思議な感覚だった。


けれど、怖くはない。

少なくとも、彼に対しては。


「あなたも休むべきよ」

彼女は小さく、冗談めかして言った。

「来てから、ずっと動きっぱなしじゃない」


「俺が止まれば、部下たちも止まる」

ルシアンはわずかに笑う。

「さっき、アルバートに物資の確認を頼んだときの顔を見たか? 今にも倒れそうだったぞ」


エミリーは、ほんの小さく笑った。


――恐怖なしに笑う感覚を、忘れていたことに気づきながら。


二人は、もう少しだけ歩き続けた。


ルシアンは彼女の隣で、静かに両手を背中に回した。


「……たぶん、だが」

少し不器用そうに、彼は言った。

「人々を生かし続けたこと……君に礼を言うべきだ。不可能じゃなかったはずがない」


エミリーは、ほんの一瞬足を止めた。


その言葉が、胸の奥に突き刺さった。


「全部は……できなかった」

声が、わずかに震える。

「話を聞いてくれなかった人もいたし……もう、手遅れの人たちも……」


ルシアンは訂正しなかった。

「最善を尽くした」などとは言わない。

空虚な慰めも、与えなかった。


ただ、こう言った。


「ここにいる者たちは、君のおかげで生きている。忘れるな」


エミリーは大きく息を吸った。


「……褒められるのに慣れてなくて」

少し間を置いて、感情を和らげるように言う。

「どう返せばいいのかも、分からない」


「じゃあ、事実だから言っていると受け取ればいい」


彼女は唇を引き結び……やがて、微笑んだ。


二人は、再び歩き出す。


夕日が城壁の向こうに沈み、すべてを赤と金に染めていく。

風が、数日間の緊張で乱れたエミリーの髪をやさしく揺らした。

それでも――彼女の足取りは、もう震えていなかった。


「ねえ……」

空を見上げながら、彼女は言った。

「また……安全だって感じられる日が来るなんて、思わなかった。一瞬でも」


ルシアンは、わずかに首を傾ける。


「俺がここにいる限り、君に何かが起こることはない」


エミリーは、胸が締めつけられるのを感じた。


空虚な約束じゃない。

義務感から発せられた言葉でもない。


ただ――

素直で、誠実で。

ここまで生き抜いてきた彼女には、それで十分だった。


「……ありがとう、ルシアン」

ため息のように、言葉が零れる。

「本当に……ありがとう」


彼はただ頷き、二人はそれ以上何も言わずに歩き続けた。


ようやく――

長い闇のあとで、カーターの街は息をついた。


そして、エミリーも。


中央広場は、変わっていた。


建物は同じ――石造りの家、閉ざされた店、ひび割れた噴水。

けれど、“音”が違った。


数日前まで、耳に入るのは泣き声、叫び声、必死な命令ばかりだった。


今は――


「ジョナ! やめなさい! モンスターの肉、これ以上食べたら体壊すでしょ!」

「でもお腹すいたんだよ!」

「マナ熱が出たらどうするの!」


叱る声。

走り回る子供たち。

温かい皿を受け取りながら、感謝の祈りを囁く老人たち。


喜びではない。

だが――確かな“ひと息”だった。


一週間前には、誰一人として得られなかったもの。


エミリーはルシアンと並び、ゆっくりと広場を歩く。

人々は二人を、安堵と疲労が混じった目で見つめていた。

まるで、すべてが夢で終わるのを恐れるかのように。


ルシアンは何も言わず、ただ見ていた。

誰が食べているか。

誰が助けを必要としているか。

誰が弱っているか。


エミリーは視線を落とす。


「時々……」

低い声で言う。

「また、こんな街を見られるとは思わなかった。音があって……生きている人がいる街を」


ルシアンは、静かに頷いた。


「たぶん、皆そう思っていた」


彼女は震える息を吐いた。


「できることは全部やった……それでも、足りない気がして」


「誰も、それ以上はできなかった」


淡々とした言葉。

だが、重みがあった。


エミリーは、覆いをかけられた荷車を指さす。

兵士たちが袋や箱を次々と降ろしている。


「全部、あなたが持ってきた食料? 想像以上だわ」


「もっとあるべきだった」

彼は淡々と認めた。


彼女は眉をひそめる。


「何があったの?」


一拍置いてから、ルシアンは答えた。


「途中で人を見つけた。想像以上に……多すぎるほど」

首元に手をやり、光景を思い返すように。

「崩れた家の下、地下室、井戸の中……何かが見つけてくれるのを待っていた。モンスターか……それ以外か」


それ以上、説明はいらなかった。


「……物資を分けたのね?」


「見捨てられなかった」


後悔も、誇りもない。

ただ、そうしなければ眠れなかったという決断。


エミリーの喉が詰まる。


「謝る必要なんてない」

言葉を選びながら、ゆっくり言う。

「その人たち……私の領民よ。あなたが救わなければ、誰も間に合わなかった」


ルシアンは一瞬、視線を落とした。

自分の行動が無駄ではなかったと、確かめるように。


「直接、伝えたかった」


彼女は頷き、胸の奥が少し軽くなる。


そして――包囲以来、初めて気づいた。


自分は、ルシアンの身を心配していなかった。

来ると信じていた。

生き延びると、勝つと。


それが当然だと、思い込んでいた。


今なら分かる。

それは、決して当然ではなかったのだと。


周囲では、兵士たちがルーン刻印の樽を開いていた。

指輪、腕輪、小さな金属箱が、物資を取り出すたびに淡く脈動する。


エミリーはすぐに空間マナの波動だと理解した。

彼女の指には今も、スナイダー家から婚約の証として贈られた《エーテリオン》がある。


王国屈指の魔導具。


それでも、彼女は樽にしゃがみ込み、手を触れた。

中に圧縮された川でもあるかのように、容器は低く震えた。


「……こんなに多くの魔導具を一度に見るなんて」

小さく息を呑む。

「スナイダー邸でも、見たことがない」


ルシアンは、抑えた誇りをにじませて微笑んだ。


「どれも一般的じゃない。

アーカナム――」

兵士の指輪や腕輪を示す。

「刻印が極めて精密だ。ダグラス家は代々、そこに投資してきた。

それから、あの荷車は――レリクトだ」


黒い装甲で補強された構造体を指す。


「稼働状態のものを持つのは、俺たちでも贅沢だ」


エミリーはゆっくり頷く。


「スナイダーからもらったエーテリオンが……」

指輪を見つめる。

「最高峰だと思っていたわ」


「エーテリオンは特注の単独カテゴリだが、容量はレリクトに劣ることが多い」

ルシアンは説明する。

「スナイダー家は安定性と効率を重視する。

レリクトは古代の遺物――巨大で、不安定で、そして強大だ」


エミリーは唾を飲み込んだ。

未知ではない。

だが、実際に稼働する姿を見るとは思っていなかった。


「……全部、必要になるわ」

独り言のように呟く。

「それでも、足りないかもしれない」


声が、再び引き締まる。


「街はモンスターの肉には頼れない。

あなたたちが去った後、畑を取り戻せなければ……餓死する」


「アルバートが、兵の半数を連れて周囲を掃討している」

ルシアンも真剣な声で答えた。

「うまくいけば、数週間は耕作できるはずだ」


エミリーは、ほんの少し息を吐いた。


「……ありがとう。本当に」


彼は言葉を返さず、ただ彼女を見た。


時には――

視線だけで、十分だった。

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