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『都は、耐え抜く』

――エミリー・カーター視点


泣き声の残響が、いまだ彼女の頭から離れなかった。


エミリー・カーターは、何日も眠っていない。

崩れ落ちる砂を、素手で必死に掴み続けるかのように、

首都の中を行き来しながら、領土を支え続けていた。


ルシアン・ダグラスの助言には従った。

村々を集め、伝令を送り、必死に懇願した。

――すべての者を、都市へ退避させるために。


だが、人は往々にして、

手遅れになるまで耳を貸さない。


従った者もいた。

危険を否定した者もいた。

「獣は通り過ぎるだけだ」と信じ、

家に閉じこもった者もいた。


エミリーは、誰かに言われるまでもなかった。


――その者たちは、もう死んでいる。


首都の内側は、限界だった。

人が多すぎる。

叫び声が多すぎる。

恐怖が、濃すぎる。


兵力不足は、すべてが始まるよりずっと前に

すでに決まっていた運命だった。

半数以上の兵は、帝国との戦に出払っている。

残された者は、疲弊し、傷つき、

あるいは、まだ幼すぎた。


それでも、エミリーは彼らを誇りに思っていた。


「耐えろ!」

彼女は何度も命じた。

「一箇所たりとも、見張りを欠くな!」


だが、現実は残酷だった。


――人手が、足りない。


魔物たちは、死骸に群がる蝿のように集まってくる。

刻一刻と、咆哮は増していく。

夜ごとに、城壁は軋みを上げ、

夜明けのたびに、隊列から兵が消えていった。


食糧は減り、

通りには、子を抱き締める母親、

祈りを呟く老人、

虚ろな目をした男たちが溢れていた。


まるで、誰もが死を待っているかのようだった。

避けられない結末を。


エミリーは、拳を強く握り締めた。


(……私は、できることはすべてやった)


そのとき――

東翼から、轟音が響いた。


「隊長!」

息を切らした兵士が叫ぶ。

「東の城壁が……兵たちが……叫んでいます!」


エミリーの心臓が、凍りついた。


「……突破されたの?」

囁くように問う。


兵士は、唾を飲み込んだ。


「わかりません」


エミリーは、もう待たなかった。


走った。


わずかな予備兵を引き連れ、

泣き崩れる人々で溢れた路地を駆け抜け、

崩れた塀を越えていく。


恐怖が、肺を焼いた。


(嫌……今じゃない……)

(夜明け前は……やめて……)


石段を、

二段、三段と飛ばすように駆け上がる。


兵士たちの叫び声が、

どんどん大きくなっていく。


だが――


それは、恐怖の叫びではなかった。


それは……

歓喜の声――?


エミリーは、血と死体、そして破られた城壁を見る覚悟で、城壁の頂へと辿り着いた。


だが――

彼女の目に映った光景は、


恐れていたものとは、まったく違っていた。


「――来たぞ!!」

「旗だ! 旗を見ろ!!」


兵士たちの叫び声が、城壁を震わせる。


エミリーの脚から、力が抜けた。


魔物の海の、そのさらに向こう。

夜明けの霧の彼方に――


黒と金の軍旗が、誇らしげに翻っていた。


ダグラス家の旗。


一本ではない。

二本でもない。


――数十本。


そして、その先頭に。


はっきりと見えなくとも、わかった。

立ち姿。

放たれる気配。

距離さえも道を譲る、その存在感。


――彼だ。


ダグラス家の後継者。


ルシアン。


……約束を、果たしてくれた。


喉の奥が、きゅっと締めつけられる。


「……来てくれた……」

震える声で、エミリーは呟いた。

「本当に……来てくれた……」


何日も堪えてきた涙が、堰を切ったように溢れ出す。


兵士たちは笑い、泣き、武器を打ち鳴らした。

絶望は、城壁が揺れるほどの希望へと変わった。


エミリーは、冷たい石壁に手をつく。


(……私は、ひとりじゃなかった)


(……なら、まだ――生き残れる)


そのとき、平原が震えた。


ルシアンが、腕を掲げたのだ。


その声は、雷のように響き渡る。


「――魔導士!

扇形陣形! 範囲魔法!

空を覆え!!」


「了解です、我が主君!!」


数百の魔法陣が、一斉に灯る。


炎を纏った岩が、流星のように降り注ぎ。

氷の槍が、唸りを上げて突き刺さる。

蒼い雷が、大気を裂いた。


地面が揺れ、

魔物の最前列が、粉砕された。


「――戦士隊!!」

ルシアンが吠える。

「盾を固めろ!

一体たりとも通すな!

陣形を維持せよ!!」


戦士たちは大地に足を踏みしめる。

ルーン刻まれた盾が打ち合わされ、

鋼と闇の壁を形作った。


魔物が、突撃する。


平原を揺らす、咆哮。


だが――

ダグラス軍は、一歩も退かなかった。


両翼では、すでに冒険者たちが動いていた。

斬り、貫き、凍らせ、焼き払う。


側面から迫る魔物を、確実に排除する。


――効率的。

――致命的。

――完璧な連携。


中央には、ルシアン。

サンダーは、嵐の上を歩くかのように進み、

ウンバーは死体の上を跳び越え、

大型の捕食者すら獲物のように倒していく。


「――撃ち続けろ!」

ルシアンが魔導士たちに命じる。

「前方に、綺麗な突破口を作れ!」


大地が一直線に爆ぜ、

都市へと続く道が切り開かれた。


「――今だ! 前進!!

最優先は民間人!

カーターへの進入路を確保しろ!!」


ダグラス軍が、咆哮する。


黒き奔流のような部隊が、前進した。

魔法の雨に、魔物は押し返され。

戦士たちは突破口を押し広げ。

冒険者たちが側面を制圧する。


そして――


カーター首都、東門が開いた。


城壁の上から、

エミリー・カーターは、信じられない思いで見つめていた。


突破口。

完璧な陣形。

黒き軍旗。


狼の紋章。

雷の輝き。


――ルシアン。


彼が門をくぐるのを見た瞬間、

胸の奥で、何かが崩れ落ちた。


「お待ちください、レディ・エミリー!!」

兵士の声が響く。


だが、彼女はもう走り出していた。


城壁の階段を駆け下り、

つまずき、息を切らし、

気品も、体裁も、すべてを投げ捨てて。


中庭を突き抜け、

サンダーから降りる彼の姿を見つける。


ルシアンが、顔を上げた。


その瞬間――


エミリーは、ただ走った。


何日も耐え続けた者の全力で、

彼にしがみつく。


涙が、止まらなかった。


「……誰も……来ないと思ってた……」

嗚咽混じりに、やっとの思いで言葉を絞り出す。


ルシアンは、彼女を突き放さなかった。

正すことも、英雄的な言葉を語ることもなかった。


ただ、抱きとめる。


静かに。

揺るぎなく。


ようやく寄りかかれる、壁のように。


「……もう大丈夫だ」

彼は、低く囁いた。

「俺が、来た」


エミリーは、彼の衣服を強く握りしめた。


何日もの間、

彼女は強い指導者だった。

責任を背負い、

民を導く声だった。


でも、この瞬間だけは――


ただ、怖がっていた少女だった。


そして、魔物が現れて以来、初めて。


恐怖が、消え去った。

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