夜がその子を呼び戻す
太陽が沈みかけた頃、
ルシアンの内側で――何かが目を覚まし始めた。
それは、ただの魔力ではなかった。
脈動。
呼び声。
闇が――彼を認識していた。
ガレット・ダグラスは彼の隣を歩いていた。
黒く焼けた鉄の杖に体重を預けながら、月のない井戸のように深い瞳で、静かな誇りを宿した光を放っている。
ルシアンに闇の秘奥――
ダグラス家に受け継がれてきた古き遺産を教え始めてからというもの、
ガレットは何度も驚かされていた。
影が、若き主に頭を垂れているかのようだった。
それは、かつてのガレットですら成し得なかった領域。
国境戦争で“名なき死神”と恐れられた、
沈黙の恐怖。
ローレンスを鍛え上げた師。
ダグラス家の守護者。
「……我が君」
ガレットは低く唸るように言った。
そこに柔らかさはない。
「この公爵領に、ε(イプシロン)適性を持つ後継者は存在しなかった。
一人としてだ。
ローレンスも、
古の公爵たちも、だ」
彼は立ち止まり、
杖に全体重を預けてルシアンを見据えた。
「闇を感じろ。
理解しろ。
そして――溶け込め」
重く、低い声。
「夜そのものになれ。
この祝福を無駄にするな。
使え」
ルシアンは喉を鳴らし、静かに頷いた。
それは謙虚さからではない。
――ガレットが誇張していないと、理解していたからだ。
自分の内側に、確かに“何か”がある。
説明できないが、はっきりと感じられる。
それは声でも、外来の影でもない。
自分自身のマナだった。
最奥から溢れ出し、
筋肉の一部のように、
腕や脚と同じくらい自然な感覚で存在し、
意思に完全な忠誠を示してくる力。
闇が、
生き物のように周囲で震えていた。
老人が指を鳴らす。
――術式の合図。
ルシアンは、引き寄せられる感覚を覚えた。
影が伸びる。
引き裂かれる。
水に垂らした墨のように、形を失っていく。
そして――
起こった。
夜の闇が、彼を包み込んだ。
拒絶ではない。
受容だった。
光のない場所でのみ目覚める古き術が、
あまりにも自然に発動する。
瞬き一つの間に、
ルシアンは「見える存在」であることをやめた。
影の裏に隠れたのではない。
影に――なったのだ。
闇属性への完全な親和により、
夜は彼を完全に受け入れ、
あらゆる視線から存在を消し去った。
音もない。
マナの痕跡もない。
教えている当人であるガレットですら、
彼を感知できなかった。
闇が、完全に包み込んでいた。
この状態のルシアンは、
もはや“存在していない”。
敵にとっては、
前兆も、
気配も、
マナの揺らぎもない。
ただ、
刃が体を貫く感触だけがあり――
次の瞬間、何もなくなる。
遠くで見守っていた守備兵たちが、
畏怖を込めて囁き合った。
「……ローレンス様みたいだ……」
だが、真実を知っているのはガレットだけだった。
――それ以上だ。
夜は、彼を隠しているのではない。
所有している。
「……夜が、彼を欲しているみたいだ……」
震えた声で呟く古参兵。
ルシアンが再び姿を現すと、
闇だった場所に、輪郭が戻った。
ガレットは、ほんのわずかに微笑んだ。
「それでいい、我が君」
静かな誇りを滲ませて。
「……それは、始まりに過ぎん」
その夜、
訓練区域に魔獣の捕食者たちが近づこうとした。
二歩目を踏み出すことすらできなかった。
ルシアンが手を上げる。
夜に溶け込むように、
足元に闇の円陣が開く。
闇の槍。
完全不可視。
完全無音。
紫がかった一閃。
喉を詰まらせる息。
何が起きたか理解できないまま、倒れる体。
魔獣たちは、
攻撃されたことすら知らずに――死んだ。
ガレットは満足そうにうなずいた。
「その力は……いつかお前の命を救うだろう。
そして、他者の命を奪うことにもなる」
ルシアンは歩いて戻ってきた。
血の一滴も付いていない。
呼吸は穏やかだった。
サンダーが誇らしげに鼻を鳴らし、たてがみを雷光が走る。
ウンバーは牙を舐め、群れのアルファを認める狼のように尾を振った。
そして遠くでは、アデラが静かに見つめていた。
レベル51の氷虎が、本能的とも言える敬意をもってルシアンから視線を逸らさなかった。
若き公爵は、自分でも完全には理解できていない何かを掴み始めていた。
不可視。
探知不能。
そして、致死的。
夜に溶ける亡霊。
ダグラス家の中ですら異端と呼べる存在。
そして、これは――
成長の、ほんの第一歩に過ぎなかった。
旅の十日目。
空が赤く染まる頃、ルシアンはキャラバンの一部が先行し、道を切り開いていく様子を見ていた。
その中には、数十人の冒険者たちがいた。
狩人、魔術師、女斥候……。
男女問わず、公国の大移動に身を投じた者たちだ。
ギルドからは命令が出ていた。
――この地域で起きている異変を調査し、報告せよ。
ほぼ同時に、公国からも依頼が届いた。
偵察任務のための探索部隊が必要だ、と。
その一致は、救いだった。
おかげで冒険者たちは、単独行動という死に等しい危険を冒さず、二つの任務を同時に引き受けることができた。
なぜなら、この土地で孤立して歩くことは――
死刑宣告に等しいからだ。
だが、ダグラス家の後継者と二千の兵に同行するなら――
それは、生存を意味していた。
その冒険者の一団の一つが、《ブルー・カレント》。
中〜上位ランクの女性冒険者五人組で、これまでは距離を保ち、黙々と任務をこなしていた。
だが、その日――
状況は一変する。
前方の地面が、激しく揺れた。
悲鳴。
魔力の衝突音。
肉が裂ける、生々しい音。
アルベルトが手を上げた。
「前方で冒険者が交戦中……彼女たちの部隊です」
ルシアンはサンダーに合図を送った。
丘を越えた瞬間、光景が飛び込んできた。
五人の冒険者が、ガラコムと呼ばれる巨大な爬虫類と戦っていた。
骨板に覆われた巨体。
彼女たちは必死に押さえ込んでいたが――
正面に集中しすぎていた。
背後から忍び寄る、より小さな捕食者に誰も気づいていなかった。
一瞬の油断。
その瞬間、すべてが崩れかけた。
一体のガラコムが五人を引きつけている間に、
茂みの奥から、もう一体が静かに姿を現した。
背後から跳びかかるために。
ルシアンは気づいた。
サンダーも、同時に。
「サンダー」
――バキィッ!!
雷が、神の槍のように落ちた。
捕食者は最後の冒険者に届く前に、粉砕された。
主の魔物は、完全に動きを止める。
「止めを刺せ」
静かで、しかし揺るぎない声だった。
冒険者たちは即座に反応した。
水と氷と鋼が重なり合い、巨獣は倒れ伏した。
沈黙。
五人はすぐに頭を下げ、ほとんど膝をついた。
リーダーの女性が一歩前に出る。
視線は床に落とされたまま。
「閣下……リリアンヌ・ヴェルモント。
デルタランク冒険者です……ご介入、感謝いたします」
声は丁寧で、慎重だった。
ルシアンは馬を降りた。
「いい戦いだった。ただ、少しの隙があっただけだ」
リリアンヌは唾を飲み込み、顔を上げない。
「すべて、私たちの責任です。
行軍を危険にさらしたこと……お恥ずかしい限りです」
ルシアンは、静かに首を横に振った。
「我々は同じ道を進んでいる。
誰か一人が倒れれば、全員が負ける」
彼女はわずかに目を見開いた。
表情には出さなかったが、声が柔らぐ。
「……お優しいお言葉です、閣下」
ルシアンは後方を見た。
疲弊した女性たち。
荷車で眠る子供たち。
足取りの重い老人たち。
「この状況では、全員の協力が必要だ。
貴族も、兵も、冒険者も……違いはない」
リリアンヌは、さらに深く頭を下げた。
それは形式ではなく、真の敬意だった。
「閣下……僭越ながら申し上げます。
そのお振る舞い……心より尊敬いたします。
多くの貴族は……いえ、失礼を――」
言葉を切り、深く息を吸う。
「後継者の方が、ここまで民を気遣う姿を……
私たちは、見慣れていないのです」
ルシアンは答えなかった。
ただ、告げた。
「カーター領に到達したら、君たちの力が必要だ。
準備、精度、そして勇気」
リリアンヌは胸に手を当て、深く一礼する。
「《ブルー・カレント》、お応えします。
命ぜられる場所で、戦いましょう」
サンダーが鼻を鳴らした。
ウンバーが牙を見せ、認めるように唸る。
リリアンヌは一歩退いたが、その瞳は輝いていた。
「では……」
形式ばった礼を取り、
「これより、閣下の庇護のもとを進みます」
冒険者と貴族の間にあった見えない壁は――
消えはしなかった。
だが、その日、確かに薄くなった。




