暁の軍勢
夜はすでに公爵都を覆っていたが、
ルシアンはまだ執務室にいた。
机の上には開かれた書類、
そして――魔物の移動経路が引かれた地図。
混沌は、あまりにも速く拡大していた。
だが彼にとって、それは決して予想外ではない。
――見たことがあった。
ゲームの中で。
そして、その物語の中で、
彼が決して忘れられない土地がある。
カーター伯領。
エミリーの故郷。
数年前から、両家の間には婚約に近い取り決めが存在していた。
条件は明確だった。
カーター伯領が救援を求めた場合、
ダグラス家は必ず応じること。
だが、ゲームの中では――
彼らは応じなかった。
公爵領は自らの危機に追われ、
援軍要請を黙殺した。
結果は、いつも同じ。
伯領は壊滅し、
エミリーの母は命を落とし、
エミリー自身は何も言わなかったが――
その心には、
冷たい憎しみが残った。
ダグラス家へ。
そして――彼へ。
その憎しみはやがて、
彼を貫く剣となる。
ルシアンは一瞬、目を閉じた。
ゲームで見た、あの場面を思い出しながら。
「……このまま同じ道を辿れば」
低く呟く。
「彼女は決して俺を許さない。……当然だ」
だが今回は違う。
今回は、彼がここにいる。
何が起きるかを、知っている。
そして――
やり直す機会がある。
伯領を救うためだけではない。
婚約の義務を果たすためでもない。
もっと重要なこと。
エミリーに、俺を憎ませないため。
光の魔力を宿す未来の担い手を、
敵に回さないため。
なぜなら、
原作通りに進めば――
彼を滅ぼせる唯一の存在が、
彼女になるのだから。
冷たく、苦い確信と共に、
ルシアンは立ち上がった。
執務室を出る。
すでに、指揮官たちは待っていた。
「部隊を準備しろ」
声は静かで、計算されていた。
「夜明けと共に、カーター領へ向かう」
将校たちは息を呑んだ。
「なぜ、そこまで急がれるのですか、我が君?」
その瞬間――
空を横切る光の脈動。
マナの震え。
災厄の前兆。
ルシアンはそれを見上げ、表情を硬くする。
「間に合わなければ」
そう言って、断言した。
「カーター伯領は、今週を越えられない」
誰も、なぜ彼がそこまで断定できるのか理解できなかった。
だが、理解は必要なかった。
必要なのは――
物語を繰り返さないことだけ。
夜明けが差し始める頃、
公爵城の中央庭園は動きで満ちていた。
戦士と魔術師、千五百名。
全員がロード級以上。
完璧な隊列で進むその横には、
領内で最も恐れられる二体の存在がいた。
サンダー。
青い瞳を持つ雷の軍馬。
レベル80。
――雷そのもの。
アンバー。
日蝕のように黒い毛並みの狼。
レベル78。
――生きる影。
二体は主を待ち、落ち着きなく身じろぎしていた。
迫り来る危険を、本能で感じ取っているかのように。
ソフィア公爵夫人は、
息子の肩にマントをかけ直し――
まるで彼がまだ十歳の少年であるかのように、
その頬を軽くつねった。
「サンダーとアンバーから離れないって言ったでしょ。
いいわね?」
有無を言わせぬ声。
ルシアンは溜息をついた。
「母上……」
「“母上”じゃありません」
将軍すら震え上がるその眼差しで睨む。
「この公爵領を出る以上、あなたは守られるの。
あの二体は常にそばに。
そして――」
視線が移る。
「アルベルト。
この子が英雄気取りの真似をしないよう、見張りなさい」
アルベルト――彼の右腕は、
軽く頭を下げ、半笑みで応えた。
「承知しました、公爵夫人。必ず」
その背後では、
アデラが白虎の耳を撫でていた。
レベル51。
吐く息は冷気となって白く舞う。
最年少。
だが、最も獰猛。
ソフィアは再びルシアンに向き直り、
髪の一房を整える。
「この軍が王国を滅ぼせるとしても……」
彼にだけ聞こえる声で囁く。
「私にとっては、息子は一人だけ」
「――無事で、帰ってきなさい」
ルシアンは喉の奥の緊張を飲み込み、
静かに頷いた。
その時――
イザベラが、兵士たちの間から現れた。
厚手の外套。
眠れなかったのだろう、腫れた目。
小さく、迷うような歩幅で近づき、
彼の胸の前で立ち止まる。
「ルシアン……」
彼は、もう分かっていた。
「イザベラ。連れてはいけない。
魔物、危険、混乱……安全じゃない」
彼女は、
伯爵令嬢らしく、
それでいて必死な表情で唇を尖らせた。
「でも……でも、一緒にいたいの。
わ、私は……」
声が震える。
「もう、あなたのものなのに。置いていかないで」
ルシアンはそっと手を上げ、
彼女の頬に触れた。
「だからこそ、ここに残す。
公爵領なら守れる。
外では……保証できない」
イザベラは唇を噛みしめ、
耐えきれず、彼の胸に額を預けた。
マントを掴み、
壊れてしまいそうなほど、強く。
「……じゃあ、約束して」
「必ず帰ってくるって。
ちゃんと、自分を大切にするって」
ルシアンは彼女の肩に手を置いたまま、離さない。
「約束する」
彼女は深く息を吸い、
彼の匂いを記憶に刻むように。
やがて離れた時、
その瞳は涙に濡れて輝いていた。
アルベルトが一歩前に出る。
「我が君。部隊、準備完了です」
ルシアンは流れるような動きでサンダーに跨った。
雷が弾ける。
アンバーは影のように寄り添う。
軍勢は一斉に姿勢を正した。
ルシアンは母を見た。
次に、
心そのもので彼を見つめるイザベラを。
そして――地平線を。
「――進軍する」




