運命に抗う継承者
世界は理由も分からぬまま震えていた――
だが、ダグラス公爵領の首都では、
すでに後継者が動き始めていた。
ルシアン――
いや、正確にはその肉体に宿るエルウィンは、
一切の迷いなく行動していた。
彼はこの未来を見ていた。
夢でも、予言でもない。
――神が作り出した、あの忌々しいゲーム。
その中で。
彼が知らなかったのは、
その「未来視」には四〇%の誤差が存在するということ。
多くの出来事は起こらない可能性があり、
あの神でさえ……
結果を完全には把握していなかったという事実だ。
だが、エルウィンにとっては違った。
すべてが現実だった。
すべてが目前だった。
そして、行動しなければ――
すべてが死刑宣告だった。
そう理解した瞬間、
彼の計画は始まった。
その命令は、公爵領全土に響き渡った。
「総人口調査を実施する。
一人残らず、例外はない。」
役人、管理官、書記、兵士……
全員が動いた。
人口、職業、農地、倉庫、街道、家族構成――
すべてを洗い出すために。
多くの者は、
帝国との戦争を続ける準備だと思った。
だが、
誰一人として異を唱えなかった。
ダグラス公爵領において、
公爵家は絶対だ。
そして、後継者ルシアンの言葉は――法そのもの。
誰も、この決断が
誰が生き、誰が死ぬかを分けるものになるとは、
想像すらしていなかった。
命令が下された直後――
すべての農村は、主要都市へ移送された。
仮設の避難所が建設され、
誰一人として野外に残されなかった。
その影響は、即座に――
そして、壊滅的な規模で現れた。
都市の人口は三倍に膨れ上がり、
倉庫、兵舎、厩舎までもが
大規模な共同寝所へと転用された。
炊き出しは昼夜を問わず続き、
食料輸送はもはや軍事作戦だった。
公爵領は、
わずか三十日で
二年分の予算を使い切った。
貴族たちは、
資源不足を訴えた。
だが――
ソフィア公爵夫人は違った。
彼女は息子の目を見た。
そこにあったのは、
恐怖、焦燥、そして揺るぎない確信。
――何かを知っている。
そう、直感で理解した。
だから、何も聞かなかった。
疑わなかった。
たとえ彼が間違っていたとしても、
その後始末は自分がする。
そう決めて、
彼の隣に立った。
彼女の政治的経験、
行政能力、
そして何より――揺るがぬ忠誠。
それらが合わさり、
他のどの領地にも不可能な
物流の奇跡を生み出した。
彼女がいなければ、
この計画は破綻していただろう。
だが、彼女がいた。
――だから、
ダグラス公爵領は耐えきった。
そして……
現象が始まった。
マナを帯びた星雲の雲が、
世界を包み込み始めた。
最初は、かすかな囁き。
空の淡い輝き。
植物の微細な震え。
だが、最初に変化したのは――
植物だった。
乾いた大地が水を吸うように、
マナを貪欲に吸収していく。
それに引き寄せられ、
魔力を帯びた草食獣たちが現れた。
本来なら、
決して人の集落に近づかぬ存在。
だが今は――
光に集まる蛾のように、
人の世界へと引き寄せられていた。
そして、その後ろから――
必然のように、捕食者たちが続いた。
帝国と王国では、
村が丸ごと襲撃され、
農地は蹂躙され、
闇の中で街が喰われた。
だが、公爵領では――
村は空だった。
農地は放棄されていた。
家族は城壁の内側にいた。
軍は、
戦争で半数に減っていたにもかかわらず、
進路は明確で、
拠点は中央に集約されていた。
犠牲は、確かにあった。
事故も、衝突も、恐怖も。
だが――
世界の他の地域と比べれば……
ダグラス公爵領は、ほぼ無傷だった。
知らぬまま救われた土地
何が起きているのかも知らぬまま備えた領地。
自分たちがどれほど幸運だったのかも理解せずに生きていた人々。
ただ一人、
生き延びるという目的だけを持って動いた継承者によって――
救われた土地。
イザベラ ―― 自分のものではなくなった人生
数か月が経った今でも……
私はまだ、自分が何者になったのかを受け入れきれていない。
アルメット伯爵の娘だった私が、
今では――
ルシアン・ダグラス・ザ・モンドリング様の専属侍女。
あまりにも急な変化だった。
最初は、この屈辱に耐えられず、
心が壊れてしまうと思ったほどだ。
以前は、好きな時間に起き、
侍女や料理人、使用人たちに囲まれて暮らしていた。
今は……
そのすべてを、私自身がしている。
夜明け前に起き、
主の湯を用意し、
衣服を選び、洗い、畳み、
予定を整え、
目覚める前にお茶を用意し、
食事を管理し、
武器を手入れし、
時間を見張り、
何一つ欠けぬように気を配る。
子どもの頃、
決して自分がすることはないと思っていたことばかり。
――でも、これが私の新しい人生。
受け入れるしかなかった。
望んだからではない。
彼がいなければ、私は家族と同じく死んでいたから。
命の恩人。
そう分かっていても……
この生活が苦しいという事実は変わらない。
とても。
とても、つらい。
ダグラス領の中も、
外の世界と同じだと思っていた。
恐怖。
憎悪。
拒絶。
王国では、そう教えられてきた。
ダグラス家は怪物。
暴君。
人でなし。
恐れるべき一族だと。
――けれど、国境を越えた瞬間、
私の常識は崩れ去った。
人々は馬車を迎えに出てきた。
笑顔で。
敬意をもって。
そして、絶対的な献身と共に。
村でも、集落でも、都市でも――
人々はルシアン様に頭を下げた。
恐怖からではない。
忠誠から。
心からの愛から。
私は彼の隣で馬車に座りながら、
手を振る人々、
目を輝かせる子どもたち、
涙を流す老人たちを見ていた。
首都に着いた時――
それは戴冠式のようだった。
花。
歓声。
鐘の音。
城壁を揺るがす喝采。
その日、私は理解した。
ダグラス家は憎まれてなどいない。
崇拝されているのだ。
さらに衝撃だったのは……
公爵領は広大で、
古く、
王国のどの地域よりも豊かだった。
父の城と比べれば……
私の「家」は乞食小屋のようだった。
後で知った。
ダグラス家は、
二千年近くにわたって富と力を蓄えてきた。
それに比べれば、
数世代しか続かぬ我が家の血筋など――
冗談のようなもの。
そして……
私の心を完全に変えてしまった出来事が起きた。
浴室にタオルを置き忘れたことに気づき、
慌てて戻った、その時――
扉を開けると、
ルシアン様はすでに湯から上がっていた。
立っていた。
――完全に裸で。
見てしまった。
全部。
一瞬、馬鹿のように固まり、
次の瞬間、顔を真っ赤にして逃げ出した。
でも……
遅かった。
あの光景は、
心に焼き付いて離れなかった。
整った顔立ち。
鍛え上げられた身体。
今まで知っていたどの貴族とも違う、その佇まい。
そして――
考えてはいけないことを考えてしまった。
私は、ただの侍女以上になれないのだろうか?
妻は無理。
それは分かっている。
でも、側室なら……
この公爵領では、
側室ですら王国の平均的な貴族よりも良い暮らしができる。
問題は、そこではなかった。
同じことを狙う女が、
あまりにも多すぎたのだ。
伯爵、男爵、侯爵の娘たち。
皆、「訪問」や「支援」を口実に近づいてくる。
滑稽で、必死で……
美しく、そして危険。
ルシアン様が指を一本動かすだけで、
誰でも彼の寝所に走るだろう。
その恐怖が、
私を蝕んでいった。
――そして、すべてが変わった。
ルシアン様が、
国勢調査を命じた。
公爵領全体が動き出した。
最初は、
帝国との戦争で戦う父――
ローレンス公爵を助けるための
新たな軍備だと思った。
でも、違った。
彼は――
魔物に備えていた。
冒険者。
魔獣の専門家。
深森の探索者。
すべてが、あまりにも異様だった。
そして――
起きた。
巨大な魔獣の大移動が、
領内に現れた。
それは公爵領だけではなかった。
王国にも及んでいた。
母が心配になった。
兄弟たちも。
帝国との戦争に出ている父のことで、
すでに心は擦り切れていたのに……
さらに、これ。
そして追い打ちのように、
ルシアン様は軍を編成した。
戦士と魔術師、千五百。
冒険者、五百。
集め得る限りの、最高の魔物狩り。
目的地は――
カーター伯領。
私抜きで。
「ここにいろ。安全だ」
そう言われた。
……置いていかれたくなかった。
彼から離れたくなかった。
その時点で私は――
彼の女であり、
侍女であり、
影だったのだから。
でも、彼は許してくれなかった。
その時、
胸が痛んだ。
孤独への恐怖じゃない。
怒りでも、苛立ちでもない。
もっと深いもの。
痛み。
不安。
空虚。
――すでに自分の一部になった誰かを、
失うかもしれない時にだけ感じる痛み。
その日、
私は理解した。
私は、彼に恋をしていたのだ。




