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『生きる大津波』

そして、近づいた彼らは――

ついに真実を目の当たりにした。


皇帝は、傷を負っていた。

それも――致命的と言っていいほどに。


黄金の鎧は、幾つもの箇所で砕けている。

腹部には深く走る斬撃。

“ただの公爵”に刻めるはずのない傷。


その裂け目から溢れ出していたのは、赤と金が混じり合った光――

濃密すぎるほどのマナを宿した、皇帝の血だった。

空気そのものが震えている。


「ち……父上……」


最初に駆け寄ったのはナイラだった。

その声は、信じられないという思いと、抑えきれぬ恐怖に震えていた。


皇帝はすぐには答えなかった。

片膝をつき、片手を地面につけ、荒い息を吐いている。


――そして、誰もが感じ取った。


マナ。


皇帝のマナ。


制御を失い、

鋭く、

まるで爆発寸前の小さな太陽のように暴れ狂っていた。


紅の近衛隊が即座に反応する。


「陛下を退避させろ! 今すぐだ!」

「マナが不安定だ、槍を下げろ!」

「皇女殿下を守れ!」


ナイラは震える手で父の腕を掴んだ。

生まれて初めてだった。

父を――この世で最も強い存在を――

脆く見たのは。


敗北してはいない。

だが、確実に――傷ついている。


なぜなら、ローレンス・ダグラスは

不可能を成し遂げたからだ。


エプシロン適性を持つ男。

人類最強の系譜に連なる存在を――

傷つけた。


皇帝の周囲でマナが歪み、

光の火花と小さな空間震動が走るのを、

帝国の将校たちは青ざめた顔で見守っていた。


「陛下……」

老将の一人が声を潜める。

「安定化が必要です。このままマナの振幅が続けば……」


皇帝は、震える手を上げて制した。


傷ついてなお、その声は威厳を失っていない。


「……問題ない」


――嘘だ。

全員が分かっていた。


彼が息をするたび、大地が軋む。

心臓が脈打つたび、エネルギーの波が放たれ、

周囲の兵士たちは無意識に後ずさった。


ナイラは歯を食いしばる。


「だ……誰が……

誰が、父上に……?」


答えを知りながら、彼女は尋ねた。


皇帝はゆっくりと立ち上がる。

かつて冷静だったその瞳は、今や静かな怒炎を宿していた。


「――ローレンス・ダグラスだ」


ざわめきが広がる。


信じられなかった。

北の公爵。

デルタ適性の男が――

大陸最強の防御を突破したなど。


顎を強く噛み締め、ヴァルゲン将軍が口を開く。


「あの男は……

まるで怪物のように戦いました」


皇帝は、低く否定する。


「違う。

彼は――ダグラスとして戦った。

そして、ダグラスとして死んだ」


拳を握りしめると、

灼熱の血が一滴、地面に落ち――瞬時に蒸発した。


「だが……

あいつは、私に“言葉”を残した」


ナイラは息を呑み、父を見つめる。


皇帝の脳裏に蘇る。

血を吐きながら、

蔑みの眼差しで告げられた、最後の言葉。


――

『公国に足を踏み入れたとき、

貴様は地獄を知る』

――


それは脅し。

警告。

そして、誓約。


皇帝は奥歯を噛み締めた。

怒りと、敬意と、

そして――かすかな疑念を胸に抱きながら。


剣を支えに膝をつく。


最後の衝突が腹部を引き裂き、

マナの衝撃波が彼の秘奥心臓を不安定にしていた。


黒く粘ついた血が、

黄金の鎧を伝って滴り落ちる。


そして、その正面――

生きる壁のように、

狂気に堕ちたダグラスの戦士たちが押し寄せてきていた。


帝国親衛隊が即応する。


「皇帝陛下を守れ!」

「鉄盾陣形、展開!」


かろうじて、その狂乱を受け止める。

だが、立ちはだかった近衛兵は次々と斬り裂かれ、

ダグラスの勢いは一瞬たりとも衰えない。


精鋭同士が激突し、

その衝撃音は――雷鳴のように戦場を震わせた。


将軍たちは必死に命令を叫ぶ。


だが――

誰の耳にも、届いてはいなかった。


皇帝は――

自らの領土ですらない場所で、あの男たちが戦う姿を目の当たりにしたとき、

胸の奥に鋭い疑念が走った。


それは、何年ぶりかに感じる感情だった。


もしかすると――

ローレンスの最後の言葉には、確かな根拠があったのではないか。


もし、あれほどの狂気と力を

他国の地で発揮できるのだとしたら……。


では――

彼らの本拠地で戦えば、どうなる?


その答えを考えた瞬間、

皇帝の背筋を、冷たいものが這い上がった。


やがて、近衛隊は力づくで皇帝を戦線から離脱させることに成功した。

その後に残されたのは、

赤く染まった道と、砕け散った鎧の破片だけだった。


前線を離れた帝国軍の野営地は、

まるで葬儀場のような静けさに包まれていた。


ナイラは皇帝の天幕へと入る。

そこで立ち止まった。


包帯に覆われ、顔色は青白く、

荒い呼吸を繰り返す父の姿。


その表情に、

心配、怒り、そして理解できないものが交錯する。


「……父上」


ナイラは拳を握りしめ、声を震わせた。


「今日だけで……私たちは、あまりにも多くの兵を失いました。

この王国への遠征は……失敗です」


皇帝は、ゆっくりと目を開いた。


「失敗ではない……」


掠れた声で、そう言った。


「これは……必要な試練だ」


「試練ですって?」


ナイラは言葉を吐き捨てるように続けた。


「数百の死者です!

それにダグラスは……誰一人退かなかった!

誰も命乞いをせず……笑いながら死んでいったのよ、父上!

あれは……一体……!」


「――私が、すでに知っている敵だ」


皇帝は彼女の言葉を遮った。


ナイラは一歩、後ずさる。


皇帝は、息を吐くのにも苦労しているようだった。


「よく聞け、ナイラ……

今日起きたことは、すべて想定内だ」


「王国は滅びる。

ダグラス公国も滅びる。

だが――一日で、あるいは一度の攻勢でではない」


「……では?」

ナイラが問う。


皇帝は、氷のような声で囁いた。


「六個軍団だ。

すでに、こちらへ向かっている」


空気が凍りついた。


「最も規律正しく……

最も狂信的な六個軍団だ。

到着まで、そう時間はかからない」


ナイラは、言葉を失った。


「軍は休息を取る。

戦力を回復させる」


「そして――

軍団が到着次第、再び進軍する」


ローレンス・ダグラスの死から三日後。

地平線は――黒く染まった。


五万の帝国兵。

六個軍団すべてが揃い、

大地を震わせる生きた城壁のように進軍してきた。


太鼓の音は終末の審判のように鳴り響き、

旗は空を覆い隠した。


王国の要塞からは――

もはや叫ぶ力も、誇りを示す気力も残っていなかった。


空気は、死んでいた。


会議室は満員だったが、

沈黙はあまりにも重く、

松明の燃える音すら不敬に思えるほどだった。


中央に座るフェリペ王の顔には、

深い隈と、眠れぬ夜の痕跡が刻まれている。


将校たちは、重い声で報告を読み上げた。


「総計で……

帝国の攻勢により、一万六千名以上の損失です」


沈黙が、さらに深くなる。


「士気は最悪です」

別の将校が続けた。

「ダグラス公が亡き今……

要塞はいずれ陥落すると、兵たちは信じています」


王は、一瞬だけ目を閉じた。


――そうだ。

誰もが、そう思っていた。


だが、次の報告が、

場の空気を一変させた。


「陛下……」

困惑と恐怖が入り混じった表情で、隊長が言った。

「ダグラス公国の魔導士たちに関する、問題が……」


フェリペは眉をひそめる。


「話せ」


「八百名の魔導士が、

要塞の門を開け、外へ出ようとしました」


ざわめきが走る。


「彼らは言いました。

“主と共に死なねばならない”

“ここに留まることは、恥だ”と」


「……八百人だと?」

青ざめた司令官が呟く。


「はい。狂気です。

幸い、彼らはすでに皇帝への攻撃で

ほぼすべてのマナを使い果たしていました。

立つのがやっとの状態だったため、拘束できました」


フェリペは顔を覆った。


――知っている。

彼は、彼らを知っていた。


ダグラスは、ただの公国ではない。

危険な忠誠を信仰する集団だ。


極端な献身は、人を――

生ける影へと変える。


やがて、王は言った。


「……牢を開けろ」


全員が凍りついた。


「陛下、それは――」

「自殺を許すことになります!」

「八百人の魔導士です!

また死にに行く!」


フェリペは机を叩いた。


「それが、彼らの望みだ!」

「彼らから、誇りを奪うことはできない!」

「彼らは、主なしでは生きられぬ!」


「しかし――」

「違う」


王は立ち上がった。


「戦いが始まったら……

城門を開けろ。

壁の外へ出せ」


その声は、敬意に満ちた囁きへと変わる。


「行かせてやれ。

……ダグラス公に、付き従わせてやれ」


誰も、もう反論しなかった。


残酷だが――

正しかったからだ。


四日目の夜明け、

帝国軍は攻城兵器を展開した。


空と大地で魔法が激突し、

要塞を覆い尽くす。


塔は次々と弱体化し、

帝国の魔導戦車が城壁に亀裂を走らせる。


王国の魔導士たちは防御を続けたが、

限界は近かった。


そして――

ゆっくりと……

本当に、ゆっくりと……


帝国軍は、城壁を登り始めた。


叫び声。

爆発。

岩が崩れる音。


塔の上から、ナイラはそれを見下ろしていた。


「父上!」

彼女は最上階から叫ぶ。

「城壁が……崩れました!」


ローレンスとの決闘で未だ弱っている皇帝は、

裂け目を見つめ、唇を引き結んだ。


その存在だけで、兵の士気は保たれていた。


帝国兵は、

裂け目から濁流のようになだれ込む。


城内での戦闘が始まる。


肉体の衝突。

悲鳴。

金属音。

魔法の爆発。


数日ぶりに――

帝国は、勝っていた。


そして……

勝利が確実に見えた、その瞬間――


最初は、地の底からの低い囁きだった。


まるで、

何かが深淵で呼吸しているかのように。


戦塵が、空中で震え始める。


「……なに?」

ナイラは悪寒を覚え、呟いた。


「地震か!?」

帝国の技師が叫ぶ。


違う。


大地ではない。


森だ。


そこに――

巨大な何かが、動いている。


単体ではない。

無数に。


裂け目にいた帝国兵たちは、

戸惑い、動きを止めた。


梯子が軋み、

投石機が揺れ、

戦場は――


息を殺した沈黙に包まれた。

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