『北方の残響』
――アクロポリス
戦地から数キロ離れた場所にて
都は、奇妙な空気を吸い込んでいた。
期待、準備、そして災厄の前触れにしか存在しない、重く粘ついた沈黙。
上層都市の鐘は鳴り止まず、その一打ごとに新たな急報、新たな命令、そして迫り来る破滅を告げていた。
通りは人の奔流と化していた。
顎に力を込めて行進する兵士たち。
震える手で魔導書を抱える魔術師たち。
何日も眠っていないような疲弊した伝令。
そして、森に潜む“何か”が到達する前に、農村部から避難する市民たち。
帝国との戦火は、まだ遠い。
だが――
大気に満ちるマナは、休むことなく震えていた。
研究魔導師たちはこれを「生態圧」と呼ぶ。
大量のマナ適応生物が移動するとき、環境そのものが反応する。
まるで、見えない巨人が大陸を揺さぶるかのように。
そして今――
それは、確実に起きていた。
中央要塞・戦略室。
アンドリュー、エリザベス、そして王国軍の将軍たちの前に、巨大な立体地図が浮かんでいる。
光のミニチュアが、部隊の移動、民間人の隊列、そして怪物による襲撃地点を示していた。
アンドリューは両手を卓の縁に置き、北西の森から南の国境近くまで伸びる点の列を睨みつけた。
「……加速しているな」
エリザベスは、病んだ心臓のように脈打つ紫色の光点を指差した。
「ここで群れが丸ごと消えた。
それから、ここ……」
次は鮮烈な赤。
「村が壊滅。でも本当に問題なのはこれよ。
低位種の魔物たちが南へ逃げている。襲撃じゃない……逃走よ」
将軍たちが、張りつめた視線を交わす。
その時、汗だくの伝令が駆け込んできた。
震える声で報告を読み上げる。
「――新報告。ウッドパイン村、完全壊滅。
家屋四十三棟、全壊。
人間の遺体は発見されず。
三……いえ、四種の異なる魔物による襲撃痕跡。
初期分析:暴力的移動――強制的な生息地放棄と判断」
アンドリューとエリザベスは同時に顔を上げた。
「四種……?」
アンドリューが低く問う。
「生息域の異なる種か?」
「はい。
黄昏狼、ガンマ鹿、生命穿ち蛇……
さらに、黒角獣の痕跡も。
すべて同一方向へ移動中。
すべて……逃げています」
沈黙が、宣告のように落ちた。
エリザベスは、ゆっくりと息を吐く。
「これほどの強制移動が起きる理由は二つしかない。
超高位存在が縄張りに侵入したか……」
「――オメガ級魔物の出現だ」
アンドリューが重々しく続けた。
四度の戦争を生き抜いた老将マッケナでさえ、その言葉に顔色を失った。
――――――
大理石の要塞・戦略広間。
張り詰めた緊張が満ちる中、貴族たちはエルハン王の前に半円を描いて並んでいた。
ブルランス公爵領――
南部から帰還した重装戦士団。
スナイダー公爵領――
交易路の守護者たち。
ブリッグス公爵領――
王国の兵站を担う者たち。
スタンリー、アーメット、ケスラー、ブラウン、
マカリスター、カーター、モンドリング――各伯爵家。
全員が、王の言葉を待っていた。
エルハンは、前置きなく口を開く。
「皇帝が前線に現れた。
だが、我々の方針は変わらない。
一歩たりとも退かず、耐え抜く。それだけだ」
ブルランスが一歩前へ出て、拳で胸を打つ。
「我が戦士は、すでにここに。
中央戦線は再び支えられる。
一メートルたりとも、進ませません」
ローレンスが続いた。
「帝国は連日、新兵を送り込んでいます。
狙いは単純――継続的圧迫。
まだ包囲は狙っていない……
消耗で、我々を砕くつもりです」
ブリッグスが補足する。
「防衛線は維持していますが、中央は損耗が大きい。
ブルランス公の帰還で猶予は得ましたが……
防衛を調整しなければ、長くは保ちません」
王は地図を指した。
「三正面は維持する。
右翼――ダグラス家。重衝突の専門家だ。
中央――王国正規軍+ブルランス騎兵。
左翼――私が直々に指揮する」
そして、カーターへと視線を向ける。
「カーター伯。
魔導師は全員、要塞内に留めよ。
一人たりとも分散させるな。
帝国が大波を仕掛けるたび、広域魔法を即座に叩き込む」
カーターは頭を下げた。
「すでに配置は完了しています、陛下。
部隊が要塞近辺を維持する限り、
陣形ごと帝国軍を殲滅できるでしょう」
「それでいい」
エルハンは断じた。
「要塞を離れた者は、死ぬ。
敵の数は我々を上回る。
我々の利は、この城と――
広域魔法を最大限に活かすことだけだ」
王の声が雷鳴のように広間を震わせる。
「これより、絶対戦時体制に入る。
帝国は、通さぬ。
この王国が、息をしている限り!」
貴族たちは拳を床に叩きつけた。
「――王国のために!」
その瞬間、扉が開く。
本当の戦争が、始まった。




