『竜の威光』
絡み合う二頭の竜を描いた帝国の軍旗が地平線に姿を現した瞬間、陣営の空気が一変した。
号令があったわけでも、角笛が鳴ったわけでもない。
――それは、本能だった。
立っているのがやっとだった数千の兵が、背筋を伸ばして立ち上がる。
負傷兵はうめき声を止め、
若い新兵は必死に無事を装い、
老練な兵は顎を上げた。
士気は、突然燃え上がる炎のように高まった。
皇帝の存在は、生きた伝説。
帝国にとって彼は歩く存在ではない――
現実そのものをねじ伏せる者だった。
紅と黒の鎧を纏った深紅衛兵が道を切り開く。
土と灰にまみれた中でも、その輝きは失われない。
皇帝が陣中を進むと、兵たちは一斉にその姿を追った。
ただ見るだけで、自分たちが世界最強の軍であることを思い出すかのように。
ナイラは小さな高台に立ち、遠くにそびえる王国の要塞を見つめていた。
何時間も、ただそれを見続けていた。
強化された塔、拡張された城壁、残された魔力の痕跡――
すべてが、彼女の失策を突きつける生きた証だった。
背後に気配が迫ったことに、彼女は気づかなかった。
聞こえたのは、ただ一つ。
いつも彼女の平静を打ち砕く、その声。
「――我が娘よ」
ナイラは即座に振り向いた。
そこにいたのは、彼。
父であり、
広大なる大陸帝国の皇帝――
だが彼女の前では、疲れた表情と誇り高い眼差しを持つ、一人の男だった。
ナイラは深く息を吸う。
「父上……」
礼法に従い軽く頭を下げたが、彼が向けた微笑みが、すべての形式を壊した。
「堅苦しいのはやめろ」
そう言って近づき、彼は優しく彼女の乱れた髪を整える。
「無事で何よりだ」
小さな仕草――
だが、それを許されるのは彼だけだった。
ナイラの胸に、安堵と羞恥が同時に込み上げる。
「すべて聞いている」
皇帝は彼女の肩に手を置いた。
「戦いの日々、王国の整然とした撤退、そして休みなき二日間の夜間行軍。
学んだことを、軽く見るな」
「……ですが、私のしたことは十分ではありませんでした」
ナイラは要塞から目を逸らさずに言った。
「彼らは成長し……私の兵は倒れていった」
皇帝は、他の誰にも見せぬ温かい笑みを浮かべた。
「辛い日々だったな」
ナイラは唇を噛みしめる。
「日々だけではありません。屈辱です、父上」
遠くの要塞を指差す。
「あなたは、いつから王国がこれを築いていると知っていたのですか?」
皇帝は、ゆっくりと微笑んだ。
嘲笑ではない。
知るべきでないほど多くを知る者の、危険な笑み。
「――数年前からだ」
その答えは、槍のようにナイラを貫いた。
「す、数年……?」
信じられない、と声が震える。
「そんなに前から知っていて……なぜ、何も言ってくれなかったのですか!?」
皇帝は眉を上げただけで、冷静さを崩さない。
「言っていたら、何を学んだ?
恐怖か?
それとも、自分の目ではなく、私の目に頼ることか?」
ナイラは一歩踏み出した。
憤り、驚き、そして痛み。
「私は……目隠しされたまま戦争に送られたのですよ!」
皇帝はそっと手を伸ばし、彼女の頬に触れた。
荒ぶる呼吸を、強制的に落ち着かせるように。
「違う、ナイラ。
私はお前を――初めて“目を開く”ために送り出したのだ」
彼女の体が震えた。
怒り、感情、愛情、屈辱――
すべてが、一度に込み上げる。
「……ダグラスのことも?」
歯を食いしばりながら問う。
「夜戦の戦術も、あの異様な耐久力も……あの、獣じみた強さも?」
「ダグラスについては、エルハン王本人よりも知っている」
皇帝は、ようやく真剣な声になった。
「あらゆる宮廷、隊商、宴席に間者がいる。
彼らの強みも……欠点もな。
そして当然、その力も把握していた」
沈黙が落ちた。
ナイラの腹の奥が、冷たく空洞になる。
「では……私を、負けさせたのですか……?」
囁く声には、怒りと悲しみが滲んでいた。
皇帝は、静かに首を振る。
「負けさせたのではない。
管理された条件下で、失敗を許したのだ」
「管理された……?」
ナイラは叫びかけた。
「何千人も死にました……! 父上!」
「そして、学ばねば――
お前が皇帝となった時、何百万人も死ぬ」
声が低く、重くなる。
「戦争は、鍛えるか……壊すかだ。
帝国の未来は、お前の肩にある」
ナイラは強く唾を飲み込んだ。
目が、熱を帯びる。
皇帝はさらに一歩、距離を詰める。
「この王国を本気で滅ぼすなら、追加で六個軍団を送っていた。
この遠征は、領土を得るためではない。
――お前を磨くためだ。
書庫の理論ではなく、血の通った経験を与えるために。
すべてを用意してやれば、お前は強くはなれる……だが、賢くはならぬ。
未来の皇帝には、その両方が必要だ」
ナイラの呼吸が震えた。
拳を強く握り、かすれた声で言う。
「……では、これまでのすべて……?
敗北も、罠も、眠れぬ夜も……
すべてが、教えだったのですか?」
皇帝は頷いた。
「痛みを伴うが――必要な教えだ」
ナイラは、彼をまっすぐに見つめた。
父。
皇帝。
娘のために、国家すら盤上の駒として動かす、至高の策士。
「父上……」
胸を焦がしながら、彼女は誓う。
「二度と、不意を突かれません。
あなたが守る必要などなくなるほど……私は成長します」
皇帝は、心からの誇りを宿した笑みを浮かべた。
「それでこそ、我が娘だ。
未来の皇帝よ」
王国の要塞から、冷たい風が吹きつける。
皇帝はそちらへと視線を向け、鋭く問いかけた。
「答えよ、ナイラ。
――真に敵を知った今、どうする?」
ナイラは深く息を吸い、
戦争が始まって以来、初めて――笑った。
「すべて、返します。
倍にして」
皇帝は満足げに、低く笑った。
「よろしい。
実に、よろしい」




