「闇の代償」
夜明けは、ダーラの引き裂かれた城壁を、かろうじて灰色に染める程度だった。
北壁近くに設けられた即席の天幕の中で、ローレンス・ダグラス公爵は休息を取っていた。
彼の周囲には、直属の配下たちが集っている。
影の隊長、黒騎士、従属諸侯の後継者たち、そして――昨夜の虐殺を生き延びた戦士たち。
場の空気は、奇妙だった。
極度の疲労と、声にならない高揚感が、入り混じっている。
半分砕けた鎧を身にまとった一人の隊長が、金属製の碗から水を飲みながら大笑いした。
「ははっ! 聞きましたか、公爵閣下!
第五軍団が、我々と戦うと知った瞬間、子どもみたいに泣き出したそうですよ!」
「出陣前から、別れの手紙を書いてたって話です!」
別の男が鼻を鳴らす。
「噂もありますぜ。新兵どもは、我らの影が兵士を丸ごと食い殺すって信じてるらしい。
悪魔と戦うつもりでダーラに向かってるんでしょうなぁ!」
笑い声が膨らみ、肩を叩き合い、鎧がぶつかり合う音が続いた。
ローレンスは、その様子を眺めていた。
黙って。
静かに。
その落ち着きは、周囲の喧騒とあまりにも対照的だった。
――彼が笑いを嫌っていたわけではない。
ただ、笑顔一つひとつが、欠けた顔を思い起こさせるだけだった。
多くの部下が死んだ。
あまりにも貴重で、
あまりにも若い命が。
目を閉じれば、昨夜の光景が蘇る。
闇の中で、三人の帝国将軍に囲まれた瞬間。
あれは――危なかった。
本当に、紙一重だった。
もし、最も忠実な家臣たちの犠牲がなければ……
今、彼はここで息をしていなかっただろう。
公国の二人の伯爵が、彼を守って死んだ。
三人目は、剣を振り、書を記し、子どもたちに手を振っていた右腕を失った。
彼の生存の代償は……
あまりにも、醜悪だった。
それでも、彼らは誰一人、迷わなかった。
なぜなら――
彼はダグラス公爵だったからだ。
公国の柱。
闇そのものの意志を継ぐ血統の後継者。
民を守る盾。
そして彼自身も……
倒れることなど、決して許されなかった。
ローレンスは、深く息を吸った。
死がかすめるたび、いつもそうなるように――
思考は過去へと引き戻される。
決して癒えることのない傷へ。
カレブ。
失われた息子。
最大の後悔。
最も個人的な失敗。
兵士たちの喧騒は、彼の意識から消え、
そこには、黒髪で、生き生きとした瞳を持つ少年の姿があった。
いたずらっぽい笑顔――
マーサに、あまりにもよく似た笑顔。
「父の計画に従っていれば……」
その思考が、苦く胸に戻る。
もし、ソフィア――
正妻であり、亡き父の意志によって定められた公爵夫人――
彼女が後継者を産むべきだと、受け入れていれば。
もし、一度くらい、自分の人生を自分の望みで生きようなどと、
そんな幻想を捨てていれば。
もし、どれほど愛していようと……
カレブが、ルシアンの居場所に立つべきではなかったと認めていれば。
「カレブは、生きていた……」
マーサは、彼を恨んだかもしれない。
息子が公爵になれないことを、涙したかもしれない。
だが――生きていた。
ローレンスの胃が締め付けられた。
いつもの痛み。
あの日から、ずっと消えない痛み。
マーサに真実を告げ、
彼女の世界が、目の前で崩れ落ちるのを見た日から。
「私は、ソフィアにとって悪い夫だった……
そして、カレブにとっては、もっと悪い父だった」
彼は、ソフィアを愛したことがない。
彼女との間に、子を持ちたいと思ったこともない。
結婚したその日から、そう告げていた。
公国の都合、老ダグラスの権力戦略によって結ばれた婚姻だったからだ。
それでも――
ソフィアは、彼を憎まなかった。
怒鳴りもしなかった。
与えられない愛を、要求もしなかった。
ただ一つだけ、求めた。
後継者。
その血統にふさわしい、
彼女の胎から生まれる子を。
ローレンスが拒んだとき、
彼女は部屋を出なかった。
泣きもしない。
懇願もしない。
ただ、静かで、揺るがぬ声で言った。
「私のためではありません。
公国のために、あなたに要求します」
――そして、ルシアンが生まれた。
あの強制された結婚の中で、
最も衝撃的だったのは、出産ではない。
ローレンスが初めて見た、
ソフィアの笑顔だった。
幼い子を抱きしめながら浮かべた、
偽りのない笑み。
彼のためでもない。
結婚のためでもない。
その子のためだけの笑顔。
「彼女も、私と同じくらい苦しんできた……
だが、ルシアンを疎かにしたことは、一度もない」
ルシアン――
決して危険に晒されなかった息子。
揺り籠の頃から魔獣に護られ、
公国の寵児として称えられ、
最初から後継者として定められた存在。
千人の暗殺者が来ようと、
彼に触れることなどできなかった。
だが、カレブは違った。
ローレンスが心に屈した、その日から、
彼は無防備だった。
赦されざる過ち。
その代償として、
彼は実の息子の命を失った。
ローレンスは、拳を強く握りしめた。
部下たちは今も笑っている。
逸話を交わし、夜の勝利を祝い、
冬を越えた飢えた狼のように。
彼は、それを止めなかった。
その喜びを、許した。
彼らは祝っていい。
彼らは忘れていい。
だが――
彼は。
公爵として。
父として。
一人の男として。
――決して、忘れることなどできなかった。
公国の重荷は、あまりにも重かった。
その血筋を導く闇は、誇りであると同時に……呪いでもある。
それでも――
ローレンスは顔を上げ、生き残った兵たちを見渡した。
彼のおかげで生き延び、そして彼のために多くが命を落とした男たち。
そして、胸中でそう誓った。
「進まねばならない。
この息が続く限り、進み続ける。
彼らのために。
マーサのために。
ソフィアのために。
カレブのために。
ルシアンのために。
そして――アスターのために」
その瞳に、一瞬、影が差した。
――――――――――
王国の首都アクロポリスは、熱気に満ちていた。
夜明けと同時に宮殿の鐘が鳴り響き、防衛計画の新たな段階の開始を告げたのだ。
アトリウム王宮の内部では、女王アデラインが、まるで戦場の将軍のように、すべてを指揮していた。
「徴兵は?」
書類から視線を上げることなく、鋭く問いかける。
「完了しています、母上」
王太子アンドリューが、背筋を正し、敬意を崩さずに答えた。
「部隊は配置済み。新要塞はいつでも展開可能です。防衛力はダーラを上回るでしょう。
……たとえ領土を失っても、王国は落ちません」
アデラインは、何日も溜め込んでいたかのような息を、静かに吐き出した。
「なら、命じなさい。
空間魔法の戦士ケイタロウを即刻出立させて。
あなたの父に伝えるのです――第二防衛線は、すでに整っていると」
アンドリューはうなずき、使命を果たすために部屋を後にした。
一人残された女王は、ほんの数秒だけ、完璧な仮面を揺らした。
母として。妻として。そして王として。
そのすべてが、異なる方向へ彼女を引き裂こうとしていた。
だが――弱さに割く時間はない。
次の大臣を呼び入れるよう命じた。
――――――――――
宮殿の別棟では、王女エリザベスが、疲労を押し殺しながらも、最後の報告書を整理していた。
国王が戦地に赴いて以来、国政のほとんどは、彼女と母、そしてアンドリューの肩にかかっていた。
報告は尽きない。
・魔物の異常増加(平時の倍)
・辺境村落への食糧配給
・軍の移動による農作物被害
・北方国境からの難民流入
エリザベスは、そっとこめかみを押さえた。
王族としての気品と教育で身につけた冷静さがあっても、彼女は人間だ。
疲れも、焦りも……そして、恋しさもある。
小さな机に腰を下ろし、書きかけの手紙を開く。
その表情は、一瞬で変わった。
政治の仮面は消え、柔らかな温もりが浮かぶ。
宛名は――ルシアン・ダグラス。
「愛しいルシアンへ……」
ため息と、誰にも見せない微笑みを交えながら書き進める。
仕事の忙しさを大げさに嘆き、些細な出来事を綴り、
そして気づかぬうちに、嫉妬心まで滲ませていた。
「……もし他の女があなたに色目を使っているなんて噂を聞いたら、
帰ってきたとき、私が直々に罰を与えますから。覚悟なさい」
王家の封印で手紙を閉じた彼女は、
その瞬間、数百キロ離れた場所で起きていることなど、知る由もなかった。
エリザベスが、誠実で高潔なルシアンからの、
愛と忠誠に満ちた返事を想像しているその頃――
当のルシアンは、まったく別の戦いに身を投じていた。
鎧もない。
剣もない。
休戦もない。
そして――
彼にとって、勝利などありえない戦い。
「はぁ……ま、参った……!」
ルシアンは息を切らし、ベッドに倒れ込んだ。
その隣に、同じく裸のまま崩れ落ちたのはイザベラだった。
満足げな笑みを浮かべ、何の遠慮もなく彼に身体を寄せる。
「三度目……私の勝ち、ですね……」
甘い勝利宣言が、囁かれる。
イザベラは、この機会を長く狙っていた。
学び、計算し、狩人のような忍耐で近づいてきたのだ。
その美しさも、優しさも、ルシアンへの献身も――
最初は通じなかった。
ルシアンは難敵だった。
ダグラス家の人間であり、厳格な貴族教育を受けた男。
誘惑に強く、真面目すぎるほどだった。
だが、彼女は諦めなかった。
転機は、「偶然」を装った出来事。
半裸の彼女を目撃し、転びそうになったところを支え――
あとは、止めようのない渦だった。
今、彼の胸に寄り添いながら、イザベラは勝者の笑みを浮かべる。
上手く立ち回り、彼を支え、
彼に「必要な存在」になれたなら……
彼女は、ただの侍女では終わらない。
この世界で望める最高の地位。
それは――ダグラス家後継者の側室。
そして今夜、
彼女はその第一歩を踏み出したのだった。
――――――――――
五日間の戦争。
五日間の流血。
帝国と王国、双方を削り取る五日間の包囲戦。
だが、あの忌まわしい夜――
千人の帝国魔導士が跡形もなく消えた夜から、
帝国軍の何かは、確実に壊れていた。
彼らは、闇を恐れた。
象徴的な恐怖ではない。
迷信でもない。
純粋な、軍事的恐怖だった。
日が沈むと、軍団は追われる魂のように陣へ引き返し、
無数の松明を灯し、光の結界で天幕を囲った。
誰も要塞に近づかない。
誰も影に踏み込まない。
ただ、遠くから見つめるだけ。
夜明けを待ち、次の攻撃を始めるために。
――それこそが、王国にとって必要だった時間。
反撃への、猶予だった。
二夜前――
苛烈な一日の戦いを終え、月が高く昇り、帝国軍が光の安全圏へと逃げ帰っていく中で、
王国軍は――最後の決断を下した。
フェリペ・エルクハン王は、貴族たちを集めて告げた。
「時は来た。今夜、進軍する」
「夜明け前ですか、陛下? 我々は疲弊しています……」と一人が口にする。
「希望は、疲労が奪えぬ力を与える」
王は静かに答えた。
「そして――帝国は、夜を警戒していない」
その通りだった。
静かに。
規律正しく。
決意を胸に――
一万五千を超える王国軍が、夜の帳に守られながらダラを離れた。
彼らは夜通し歩いた。
壊れた鎧を身にまとい、血に染まった包帯を巻き、今にも崩れ落ちそうな脚を引きずりながら。
それでも歩いた。
肉体の力ではない。
彼らの先に、より大きく、より強く、より魔法に満ちた新たな要塞が待っていると知っていたからだ。
朝日が昇る頃、彼らはすでに姿を消していた。
そして――影を恐れる帝国は、何一つ見ていなかった。
翌日も、帝国は激しく攻撃を続けるだろう。
戦争とは、悲劇すら日常へと変える。
何千もの死は、もはや誰の心も揺らさない。
それはただの――「また一つの夜明け」に過ぎなかった。
壊滅した軍団の生き残りで構成された、ある帝国部隊に、出立前の最後の命令が下る。
「――任務:ダグラス家を抹殺せよ」
沈黙が落ちた。
震える者。
青ざめる者。
帝国が迷信を嫌うと知りながらも、思わず祈りを捧げる者さえいた。
その名を――
誰もが知っていたからだ。
ダグラス。
静かな死の代名詞。
部隊を丸ごと呑み込む影の象徴。
そして――夜そのもの。
あの大虐殺の夜以来、
これほど恐怖を植え付ける命令はなかった。
兵士たちは、墓場へ向かう者のような諦観を抱いて進軍した。
そこに名誉はない。
栄光も、昇進の望みもない。
あるのは――服従だけ。
だが、その朝、進軍する中で、何かが噛み合わなかった。
ダラの外縁に到達したとき、彼らが想定していたのは――
矢。
魔法。
罵声。
罠。
炎。
しかし――
静寂。
ただの静けさではない。
要塞そのものが死んだかのような、重苦しい沈黙。
歴戦の兵が足を止めた。
新兵は唾を飲み込む。
将軍が眉をひそめる。
「……なぜ攻撃してこない?」
「見張りはどこだ?」
「なぜ城壁に動きがない?」
ひび割れ、崩れかけた城壁は――
空だった。
一人の大尉が手を上げる。
「斥候、前へ! 敵の存在を確認しろ!」
探索兵が瓦礫を登る。
覗き込むまで、五秒もかからなかった。
五秒の完全な沈黙。
そして――叫び。
「い、いません!」
「何だと!?」
「要塞が……空です!」
ざわめきが走る。
魔導士たちは顔を見合わせ、
兵士たちは互いに理由を探した。
士官が震える声で言う。
「ま、まさか……全滅……?」
「逃げた?」
「わ、罠では……?」
将軍は恐怖を飲み込み、命じた。
「直ちにナイラ殿下へ報告しろ! 今すぐだ!」
――――――――――
帝国の天幕では、ナイラが地図に囲まれ、五日間の停滞に苛立っていた。
そこへ、伝令が飛び込んでくる。
「で、殿下! ダラが……ダラが空です!」
ナイラは瞬きをした。
「空……?」
「完全に。兵も、職員も、最近の死体も……何もありません」
「夜間の見張りは?」
危険な声音で問いかける。
将軍たちは身を強張らせた。
全員が、答えを知っていたからだ。
「殿下……あの夜の虐殺以来、我が軍は日没前に陣へ戻っています」
「夜間、城壁を監視していません」
ナイラは、すぐには答えなかった。
その手が、わずかに震える。
恐怖ではない――純粋な怒りだ。
「……逃げたのね」
「はい、殿下」
「いつ?」
「夜の間かと……」
沈黙。
ナイラは拳で机を叩いた。
「夜だと!? それで誰一人気づかなかったというの!?」
将軍たちは頭を垂れる。
彼女は深く息を吸い、怒りを抑えた。
「進軍するわ。
この目で、その放棄を確かめる」
南門の崩れた入口を越えた瞬間、
彼女の足音だけが、虚無に響いた。
父から初めて与えられた征服任務。
伝説の要塞ダラに、勝者として入城する――
軍を従え、旗を掲げ、栄光に包まれて。
だが、そこにあったのは――
空虚な廃墟。
完全な静寂。
死んだ要塞。
帝国の松明が、壊れた回廊、半壊した塔、無人の中庭を照らす。
新しい死体はない。
捨てられた鎧もない。
新しい血の痕跡もない。
あるのは――消え去った抵抗の残骸だけ。
「王国軍は、どこ?」
ナイラは誰も見ずに問う。
将軍たちは震えながら視線を交わす。
「殿下……夜の間に逃げたものと」
「なぜ見逃したの?」
毒のような囁き。
「我が軍は……日没後、この要塞に近づきません……あの夜以来……」
「――虐殺の夜から、ね」
彼女の瞳が燃え上がる。
夜。
常に忌まわしい夜。
常に――呪われたダグラス。
「愚か者ども」
吐き捨てる。
「逃がしはしないわ」
崩れた城壁を見上げ、苦々しく息を吐いた。
ダグラスは、ただ勝ったのではない。
帝国の恐怖を利用し、目の前で消え去ったのだ。
闇を、味方につけて。
ナイラは理解していた。
「これは勝利ではない。
――屈辱よ」
ざわめきが兵士たちの間を走る。
帝国の皇女、
未来の皇位継承者は――
完全に、してやられたのだった。




