『夜を支配する者』
ナイラは静かに目を閉じた。
血に染まり、舞うように人を斬り伏せるローレンスの姿が、脳裏に焼き付く。
「――“死を刈る者”……」
その唇が、冷たく歪む。
「どこまで立っていられるかしら。試してあげる」
細く、危険なその笑みは、さらに血に染まる一週間の始まりを告げていた。
そして――
夜が、黒い死装束のように戦場へと降りた。
闇の中、風は冷たく、静まり返り……何かを待つように息を潜める。
まだ温もりの残る死体たちは空を仰ぎながら、死をも恐れぬ軍勢の規律正しい進軍に踏み越えられていった。
帝国軍の太鼓は鳴らされなかった。
ダラの守備兵を目覚めさせるわけにはいかなかったのだ。
――待ち伏せの時。
何千という帝国兵が、密集隊形のまま無言で進む。
湿った泥を踏みしめながら、音を殺し、気配を殺し。
目立つことを避け、
存在を悟られぬことを最優先に。
それが――最初の過ちだった。
なぜなら夜は、
人間のものではない。
夜は――ダグラスの領域だからだ。
ガレス・ヘルムストロームは、帝国の命令に従い前進していた。
胸を張り、幾多の戦場で鍛えられた誇りを背負って。
第六軍団の古参。
地属性魔導士・レベル65、ベータ適性。
帝国の力を象徴する存在だった。
周囲には、赤と金の軍旗の下を進む無数の兵士たち。
城壁への正面攻撃が大地を震わせていたが、彼の視線は揺るがない。
だが――
軍勢が進むその裏で、夜が隠していたものを、誰一人として見ていなかった。
木々の間。
地に這うように――五十の影が闇を裂いて進む。
音はない。
荒い呼吸もない。
足跡すら残さない。
《影の帳》
ダグラス家秘伝の術式。
精鋭魔導士ですら感知不能な、完全遮断の隠蔽魔法。
その先頭で、ローレンス・ダグラスが二本の指を掲げた。
――無言の合図。
五十の影が、一斉に散る。
ほんの、指を鳴らすほどの時間。
ほんの、一瞬の黒い閃光。
最初の帝国魔導士の首が、地面に転がり落ちた。
次に、もう一人。
さらに一人。
そして――また一人。
夜が、静かに牙を剥いた。
前線から響く叫び、太鼓の音、金属がぶつかり合う轟音――
それらすべてが、戦列の背後で始まった“静かな虐殺”を覆い隠していた。
ローレンスは、まるで宙を滑るかのように動いていた。
彼の剣は輝かない。
――光を、喰らっていた。
一太刀一太刀が正確で、速く、そして無音。
魔導士が一人倒れるたび、
それは帝国の戦略そのものを削る一撃となる。
一人が叫ぼうとした。
「や、やめろ! 後ろから――!」
言葉は最後まで届かなかった。
闇が、その身体を真っ二つに断ち切ったのだ。
ドン――ドン
太鼓が鳴る。
それはまるで、帝国そのものの心臓の鼓動だった。
その低く重い音が、ガレスの胸を震わせる。
――我らは征服者。
――我らは、止められぬ大潮。
将軍たちが軍旗を掲げた。
「――前進!」
号令と同時に、兵士たちは一斉に足を踏み出す。
鋼鉄の海が、うねりながら前へと進む。
ガレスは第三列――広域魔導士部隊にいた。
彼の地属性魔法は、防ぎ、遮り、強化するためのものだ。
その手が、わずかに震える。
恐怖ではない。
迫り来る戦闘への、純粋な昂揚だった。
正面にそびえるダラの要塞は、
彼がこれまで見てきたどの城とも違っていた。
「……嫌な感じがするな、ガレス」
隣を歩くアーケンが、低く呟く。
「黙って集中しろ」
そう返したものの、ガレス自身も空気の異変を感じていた。
その時――
城壁の上で、松明が一斉に灯った。
橙色の光が、星群のように連なる。
「警戒――! 帝国軍が進軍中だ!」
王国側の太鼓が応えた。
速く、荒々しく。
真正面からの挑発。
そして、ガレスはそれを見た。
防衛魔導士たち。
数十……いや、数百はいる。
全員が、同時に手を掲げる。
蒼い光が、空間に凝縮された。
「――弱体封印!!」
見えない衝撃波が、
ガレスの胸をハンマーのように打ち抜いた。
「ぐっ――!」
足がもつれる。
「な……なんだ、これは……」
鎧が、倍以上に重く感じる。
呼吸が焼けつくように苦しい。
魔力が――重い。
凍った泥のように、鈍く滞る。
周囲から、悲鳴が上がった。
「動けねえ!」
「魔力が……反応しない!」
「脚が……鉛みたいだ!」
ガレスは必死に詠唱を試みる。
《ペトリオ強化》――彼の得意とする基本術式。
だが、発動しなかった。
「……忌々しい要塞め……」
呟いたその瞬間――
王国の魔法が、雨のように降り注いだ。
タタタタタタタッ――!
重装盾が可能な限りそれを防いだが、
多くの兵が悲鳴を上げて倒れていった。
帝国軍も強化魔法で応戦する。
だが弱体化の影響で、呪文は城壁に届く前に霧散していく。
――そして、王国側の魔法が炸裂した。
「――《嵐壁》!!」
「――《大地の槍》!!」
「――《氷晶破砕》!!」
爆炎。
烈風。
氷。
鋼。
そして――叫び声。
帝国軍の前線は、閃光と死体が渦巻く地獄と化した。
その中を、攻城用の魔導師たちが駆け抜けていく。
「第一詠唱開始!」
「破城攻撃、発動!」
ガレスはごくりと喉を鳴らした。
それが良い兆しであったことなど、一度もない。
三本の火柱が天より落ち、南壁を直撃する。
ガガガガァァンッ――!
石が震え、
軋み、
崩れ落ちた。
「もう一発だ! もう一発で突入できるぞ!」
将軍が咆哮する。
そして一瞬――
ほんの、ほんの一瞬だけ。
ガレスは、勝てると思った。
――その時、悲鳴が聞こえた。
背後から。
振り返った瞬間、
彼の思考は凍りついた。
帝国の魔導師たちが――
仲間が――
刈り取られるように倒れていく。
一人。
二人。
十人。
百人。
音もなく。
争いもなく。
抵抗すらなく。
「な……なにが起きてる……?」
アーケンが、死人のように青ざめて呟く。
一人の魔導師が、必死に光のオーブを灯した。
その光が照らし出したのは――
……並ぶ死体。
……喉を裂かれた術者たち。
……沈黙の血溜まり。
そして、その奥。
ほんの一瞬だけ見えた“それ”。
人の形をしている。
だが――人ではない。
黒い熾火のような瞳。
身を包む影。
静かで、余裕すら感じさせる歩み。
――ローレンス・ダグラス。
死の刈り手。
オーブが落ちた。
それを持っていた魔導師も。
首を失ったまま。
アーケンが叫んだ。
ガレスは必死に大地の壁を呼び出そうとする。
――発動しない。
魔力が、動かない。
身体が震え、
膝が崩れ落ちた。
その時、彼は“感じた”。
背後にある、何か。
冷たく。
致命的で。
正確な存在。
「――個人的な恨みじゃない」
柔らかく、礼儀正しい声が囁く。
「ただの戦争だ」
刃が背中から入り、胸を貫いた。
熱い。
湿っている。
――終わりだ。
ガレスは膝をついた。
口の中に血が溢れる。
世界が、滲んでいく。
太鼓の音が消えた。
血の匂いも消えた。
大地の震えも、止まった。
帝国のことを思った。
第六軍団を思い出した。
生き延びてきた、数々の遠征。
――こんな最期じゃないはずだった。
――城壁に、触れることすらできずに……
視界が暗くなる。
最後に見えたのは、
帝国兵の列の間を歩くローレンスの影。
まるで――
夜そのものの支配者であるかのように。
そして――
帝国の古参兵、ガレス・ヘルムシュトロームは、
静かに、最後の息を吐いた。




