「力と苛立ち」
数と傲慢さを誇ったにもかかわらず、
帝国は防衛線を突破することができなかった。
最初の大攻勢は、
無力な波のように城壁へ叩きつけられ、砕け散ったのだ。
帝国が纏ってきた“無敵”の仮面は、確かにひび割れていた。
――数十年ぶりに、帝国の影が血を流した瞬間だった。
高い監視塔の上から、ナイラは無言で戦場を見下ろしていた。
一日の塵に汚れた白いマントが、夕風に揺れる。
彼方では、黄昏の光が王国の軍旗――
エルカーン、ボルランス、そして不屈のダグラス家の旗――を照らし、
荒廃の上に誇らしく翻っていた。
「……この王国を、甘く見ていたわね」
その声は静かだったが、
わずかに強張った顎が、苛立ちを隠しきれていなかった。
そばに控えていた、第四帝国魔導円の印を刻んだ灰色の法衣の男が、深く頭を下げる。
「殿下。今回の戦いは、あくまで試金石に過ぎません。
これで敵の戦力と弱点は把握できました。
一週間もあれば、全面包囲の準備は整います」
彼は少し間を置き、低い声で続けた。
「問題は、あの三つの戦線です。
特にダグラス家。
レベル八十、デルタ親和の将軍を二名投入することを提案します。
それで、あの防衛線は必ず崩せるでしょう」
ナイラはすぐには答えなかった。
その視線は、なおも右翼に釘付けになっていた。
煙の柱の中で、なお誇り高く翻る――黒き狼の紋章。
――ローレンス・ダグラス。
ルシアンの父。
彼女は思い出していた。
あの男の戦い方を。
無駄がなく、単純で、そして致命的なまでに正確。
偶然や運に頼らず、己を完全に支配することで成立する技。
――数で押し潰せる相手ではない。
「三人送りなさい」
ついに、ナイラはそう告げた。
その声は硬く、反論を許さない。
「二人では足りないわ」
補佐官は驚いたように顔を上げたが、口を挟むことはなかった。
ナイラの命令は、常に絶対だった。
彼女は身を翻し、夕焼けに燃える地平線を見つめる。
唇に浮かんだのは、かすかな感情の火花――抑えられた微笑み。
それは恐怖ではない。
期待だった。
(一週間後……私の最初の大勝利)
帝国中が、ひとつの名のもとに震えるだろう。
あるいはこう呼ばれるかもしれない。
――征服者ナイラ。
――至高の皇帝、ナイラ。
*
白い大理石の浴槽から、湯気が螺旋を描いて立ち上っていた。
治癒用の薬草の香りが部屋を満たし、眠気を誘うほどに穏やかだ。
ルシアンは目を閉じ、湯に身を預けていた。
その背後で、イザベラが震える手で彼の肩を揉んでいる。
「も、申し訳ありません……ご主人様……」
か細い声で、彼女は三度目の謝罪を口にした。
「治癒薬草を……お茶と混ぜてしまって……
それに、ノックもせずに入ってしまって……」
ルシアンは、深く息を吐いた。
その日だけで、何度この言葉を聞いたか、もう数え切れない。
イザベラが彼の専属侍女に任命されてから、失敗は続いていた。
湯が熱すぎる。
衣服の畳み方が雑。
お茶は苦い。
どれも致命的ではない。
だが、ダグラス家に仕える者としては失格だ。
……それでも、彼は彼女を責めることができなかった。
彼女は、仕えるために生まれてきた人間ではない。
アルメット伯の娘として、宴と宝石に囲まれて育った少女だ。
水桶や亜麻布とは無縁の人生だった。
今はこうして、彼の前に跪き、手を震わせている。
その震えは、失敗への恐れよりも――
誓約の重さによるものだった。
ルシアンは視線を逸らした。
サグムスの前で交わされたあの誓約を思い出すたび、胸に鋭い痛みが走る。
彼女は――命そのものを差し出して、忠誠を誓った。
もしその誓いを破れば、呪いが発動し、
肉体は腐り落ち、やがて死に至る。
すべては……生き延びるためだった。
(……こんな形であるべきじゃない)
彼は侍女など望んでいなかった。
ましてや、状況に追い詰められ、選択肢もなく縛られた存在など。
だが、もし彼が拒めば――
彼女の一族は処刑されていた。
それだけは、背負えなかった。
「……今日はもういい、イザベラ」
穏やかだが、はっきりとした声でそう告げると、
彼女はぴたりと動きを止めた。
ルシアンが身を起こす間に、
イザベラは慌てて湯の準備を整える。
水面は静かに泡立ち、マナ草が淡い緑の光を放っていた。
すべて順調――のはずだった。
彼女が、部屋の中央で凍りつくまでは。
「……た、タオル……」
震える声。
顔から血の気が引いていく。
ルシアンが目を開くより早く、
イザベラは勢いよく振り返り――
桶の縁につまずき――
そのまま、浴槽へと前のめりに転げ落ちた。
ドンッ!
大きな音が部屋中に響き渡る。
一瞬、聞こえたのは水音だけだった。
やがて、イザベラが湯の中から顔を出す。
全身ずぶ濡れで、頬は真っ赤に染まっている。
白い衣が肌に張り付き、二枚目の皮膚のようだった。
ルシアンは即座に背を向け、目を固く閉じた。
「……っ、すべての神々よ、イザベラ!」
片手で顔を覆いながら叫ぶ。
「だ、大丈夫か!?」
「は、はいっ! ご主人様! だ、大丈夫です!
ご、ごめんなさい! 事故です!」
彼女は必死に浴槽から出ようとするが、
また滑り、さらに恥ずかしさを募らせる。
ルシアンは歯を食いしばった。
怒りではない。
胸を駆け抜けたのは、制御しきれない感情の奔流だった。
彼はまだ若い。
身体は年相応に、衝動的に反応してしまう。
だが、理性は理解していた。
――流されてはいけない。
彼女はただの侍女ではない。
すべてを失った少女だ。
そして今ここにいるのは、
望んだからではなく、
そうする以外に生きる道がなかったから――
ただそれだけなのだから。
ルシアンは深く息を吸った。
「……湯から出ろ。服を着るんだ」
抑え込まれた感情を孕みながらも、その声は揺るがなかった。
イザベラは小さく頷き、視線を床に落とす。
その後に訪れた沈黙は、どんな叱責よりも重く、胸にのしかかった。
ルシアンは彼女に背を向け、窓辺へと歩み寄る。
夕暮れに染まる公国の丘陵が、静かに広がっていた。
外では、戦争が確実に前へ進んでいる。
血と炎が、世界を塗り替えようとしていた。
だが――
この公国の内側では、
すべてが、あまりにも穏やかに進んでいた。
それが、かえって不安を呼ぶほどに。




