『鉄の黎明(てつのれいめい)』
――戦争は、始まった。
ダラの地に訪れた夜明けは、光ではなく――予兆を運んできた。
埃と鉄の匂いを孕んだ風が、南の丘陵から吹き下ろす。
そこには、帝国が築いた大規模な野営地が広がっていた。
城壁の上から望む地平線は、影に覆われているかのようだった。
黄金の天幕、深紅の軍旗、そして朝日を反射する無数の槍の列。
それらが、静かに、しかし確実に迫ってくる。
帝国軍は、視界の果てまで広がっていた。
十万の兵。
完璧な規律のもとに整列し、
フェルッシ家の双頭の鷲が風に翻る。
各部隊には明確な役割があった。
重装の前衛、突撃騎兵、魔導砲兵、
そして――魔法コホート。
半透明の防護障壁に守られた帝国魔導士たちは、
大地を震わせる力の刻印を、今まさに編み上げようとしていた。
だが、ダラはただの都市ではない。
生きた岩盤の上に築かれ、
幾世代にもわたる対帝国戦争で鍛え上げられた要塞都市。
城壁には、魔力衝撃を吸収する古代ルーンが刻まれ、
塔は弓兵と術者、両方の戦場となる。
住民たちは知っていた。
――耐え抜く方法を。
――そして、格上の敵に血を流させる術を。
中央の櫓の上で、フィリップ・エルカーンは戦場を見渡していた。
その眼差しは、敵の一挙手一投足を測るように鋭い。
傍らでは、ローレンス・ダグラスが西方街道の地図を確認していた。
「正面から来れば、後方が空く」
彼は低く告げる。
「我らの騎兵で、帝国の補給線を叩ける」
「その通りだ」
王は頷いた。
「奴らは力を信じている。
我らは――飢えを信じる」
こうして、
誰の目にも映らぬ“戦の舞”が始まった。
帝国が攻城兵器を展開する間、
カパルシアの軽装部隊は森を縫うように潜行し、
補給車列を破壊し、物資に火を放ち、伝令を消していく。
それは消耗の戦。
知略と狡猾さの戦争だった。
この戦場では、
奪った軍旗一つよりも、
穀物袋一つの価値の方が、はるかに重い。
いかに強大な帝国といえど、
食糧と安定したマナ供給なしに、
その怪物のような軍勢を維持することはできない。
――そして、王国はそれを知っていた。
正午。
帝国の戦鼓が、大地を揺らす。
戦列が動き始め、
黄金の軍旗が一斉に掲げられた。
その背後で、
高位魔導士たちが詠唱を開始する。
彼らの身体は、わずかに宙へと浮かび、
光に包まれていた。
そして――
空が、裂けた。
神々の槍のごとき雷が天より降り注ぎ、ダラの前方に広がる平原を抉るように巨大なクレーターを穿った。
轟音は凄まじく、城壁は震え、一瞬にして空気は炎と灰に満たされた。
だが、王国の反撃は即座だった。
最上層の塔からルーン円陣が起動し、青い魔力の巨大なドームが展開され、城壁の各区画を覆い尽くす。
同時に、都市内部から王国の魔導士たち――黒と青の法衣を纏った女性たちを中心に――が反撃を開始した。
大地が揺れる。
蒼穹より氷の彗星が落下し、炎の暴風が最前線の帝国軍陣地を薙ぎ払った。
空は力のキャンバスと化し、光と憤怒の戦場となる。
神々の狭間に立たされたただの兵士たちは、燃え盛る世界の中で顔を覆うしかなかった。
北壁の基部付近で、王国の封印陣が淡く輝き始める。
それはダラの魔法網――敵が近づくたび、ゆっくりと魔力を吸い上げるルーンの結界だった。
帝国の魔導士たちは気づくのが遅すぎた。
呪文は弱まり、術式は完成する前に砕け散っていく。
城壁の上から、その混沌を見下ろし、ローレンス・ダグラスは微笑んだ。
ローレンス・ダグラスは部下を率い、前線へと進み出る。
黒獅子の紋章が、光を吸い込むかのような暗い刻印を施されたエーテリオン装甲の上ではためいていた。
呼吸は静かで、瞳の輝きは揺るがない。
彼の周囲には、百の戦場を生き抜いてきた老狼――ダグラス家の戦士たちが無言で控えていた。
恐れはない。彼らは皆、この旗の下で生まれ、血を流してきたのだから。
帝国軍の先鋒が突撃した瞬間、大地が再び震える。
彼らは征服された諸王国の兵士――空虚な約束に押し出され、死へと向かわされた者たちだった。
槍がぶつかり、叫びが金属音と交じり合う。
だが、ダグラスの陣は一歩も退かなかった。
ローレンスが剣を掲げると、闇の脈動が戦場を走った。
刃の影は鋼が肉に触れる前から広がり、すべてを断つ。
敵兵は理解する間もなく、音もなく倒れていく。
それは戦闘ではない。処刑だった。
「――陣形を保て」
命令の声は静かで、どこか感情が欠けていた。
彼の剣技は簡潔にして優雅、無駄がない。
一撃一撃が致命であり、動きはすべて計算されている。
憎しみを見せることなく殺す――まるで死が、義務の当然の帰結であるかのように。
進むにつれ、彼の放つ威圧は拡大していった。
帝国の魔導士たちは炎や雷で止めようとするが、エーテリオン装甲はそれらを吸収し、純粋な肉体の力へと変換する。
ローレンスは敵の残骸の中を歩み続け、夕陽がその輪郭を赤く染め上げていた。
丘の上から、ナイラ・フェルッシ公女は魔晶越しに戦場を見つめていた。
人の価値を金の重さのように量ってきたその瞳が、驚きに見開かれる。
「……あの男は、誰?」
「ダグラス公です、殿下」
傍らの将軍顧問が答えた。
「あなたがお探しの少年の父君にあたります」
その名が、彼女の胸に反響する。
ダグラス。
戦争評議会の報告書で、何度も目にした名だった。
古き名門――デルタ適性の魔力を受け継ぐ血統。
帝国においてさえ、真の貴族と称されるほどに希少な系譜。
ローレンスが戦う姿を見つめながら、
ナイラは、なぜ父があれほどまでに“血の純度”を重んじるのかを理解した。
あの男の強さは、単なる技量や経験ではない。
それは――幾世代にもわたって積み重ねられ、
一つの肉体へと凝縮された重み。
マナそのものによって研ぎ澄まされた、一族の遺産だった。
ふと、彼女の脳裏に若き日の記憶がよぎる。
帝国学院に在籍していた頃、
彼女は帝国でも屈指と謳われた後継者たちと刃を交えた。
だが、誰一人として彼女を打ち破ることはできなかった。
一瞬、追い詰められることはあっても、
やがて彼らのマナは尽きていく。
――彼女だけは、違った。
エプシロン適性を持つ彼女は、
他の者たちが倒れ伏した後も、戦い続けることができた。
それが血統の力。
弱き者が仕え、
強き者が統べる理由。
……それなのに。
ローレンスを見た瞬間、
彼女の胸に宿ったのは、別の“火花”だった。
疑念ではない。
――予感だ。
(もし、あの男の子が、この力の半分でも受け継いでいるなら……)
その思考に、ナイラは思わず足を止めた。
唇が、かすかに弧を描く。
生まれて初めて、
ナイラは“好奇心”を覚えた。
それは敬意から芽生えた、危険な好奇心だった。
もしかすると――
あの少年、ルシアン・ダグラスは、
ただの政治的な駒ではないのかもしれない。
いや、もしかすれば……
彼女自身にさえ、挑み得る存在になるのではないか。
興味と傲慢が入り混じった思考が、彼女の中で渦を巻いた。
戦場の中心では、
ブルランス公爵が、黄金のエネルギーを纏ったメイスを振るっていた。
身長は二メートル近く、
盾のように分厚い上半身。
その存在感だけで、敵を威圧する。
大槌が振り下ろされるたび、
大地は裂け、
兵の身体が嵐に舞う枯葉のように宙を舞った。
頭蓋は粉砕され、
衝撃音は悲鳴と金属の咆哮に紛れて消えていく。
彼の魔力適性――
肉体強化・デルタ級。
それは全ての筋肉を、凶器へと変える力だった。
周囲の空気は歪み、
圧倒的な力の圧で震えている。
……だが、それほどの剛力を持ちながらも、
彼の胸中では、苛立ちが渦巻いていた。
中央戦線が、崩れかけていたのだ。
小貴族家の部隊は混乱の極みにあり、
盾は揃わず、
槍兵は統制なく後退し、
魔導士たちは防御陣の起動に遅れている。
ブルランスは左右の戦線を駆け回り、
怒号を飛ばし、
本来受けるはずのない攻撃を身をもって受け止め、
自らの肉体で、あらゆる亀裂を塞ごうとしていた。
額から流れ落ちる汗は、
土埃と血に混じり、
彼の顔を濡らしていた。
右手側で、火炎の爆発が弾け上がった。
—踏みとどまれ、クソったれども!—
ブルランスは咆哮した。その声は、魔法の轟音すら押しのけて戦場に響き渡る。
自らの圧倒的な力をもってしても、
陣形が限界に近づいていることは分かっていた。
もしここで崩れれば、中央は瓦解し、
数分と経たずに帝国軍に包囲される。
それは避けられない未来だった。
部下たちの顔に、それがはっきりと刻まれている。
恐怖、疲労、混乱。
誰もが、次の一撃に耐えられる保証を持っていなかった。
そのとき――
土煙と黒煙の向こう、右翼へと視線を上げる。
遠くに翻るのは、黒き狼の紋章。
ダグラス家の軍旗だった。
その隊列は、一個の生き物のように動いていた。
完璧に噛み合った歯車。
一切の無駄も、乱れもない。
一撃、一歩、一声。
すべてが同じ鼓動を共有しているかのように、完全に同期している。
その先頭に立つのは、
ローレンス・ダグラス。
静かで、冷酷で、揺るぎない。
戦場を歩むその姿は、まるで避けられぬ運命そのものだった。
ブルランスは奥歯を噛みしめた。
胸を貫いたのは、嫉妬――そして、否定しがたい敬意。
自分が必死に、崩れかけた軍を繋ぎ止めている一方で、
ローレンスとその兵たちは、
生きた城壁であり、
すべてを呑み込む黒き嵐だった。
「……洒落た老いぼれめ」
ブルランスは低く呟き、再び大槌を振り上げる。
「そう簡単に、俺を見下せると思うなよ」
大地が震えた。
彼が叩きつけた一撃から、
黄金のエネルギーの輪が解き放たれ、前線を駆け抜ける。
近くの戦士たちは、
骨の奥を走る魔力の圧を感じた。
筋肉が引き締まり、
重くのしかかっていた疲労が、一瞬だけ霧散する。
—今日、カパルシアは落ちん!—
公爵の咆哮が、戦場を裂いた。
その叫びと共に、
ブルランスは再び戦いへと身を投じる。
忘れ去られた神の怒りのごとく、
鉄と肉を容赦なく粉砕しながら。
一方、左翼では――
王、フィリップ・エルカーンが陣頭に立っていた。
ローレンスの静謐な威圧感とは対照的に、
彼の存在は、生きた嵐そのものだった。
周囲の空気は震え、
濃密なエネルギーに満ちている。
肌と鎧に刻まれた雷のルーンは、呼吸のたびに閃光を放ち、
その槍は、まるで嵐の心臓を封じ込めたかのように輝いていた。
天より一条の雷が落ちた。
王の槍へと直撃し、その瞬間、凄まじい電撃が解き放たれて敵陣を駆け抜ける。
帝国兵たちは次々と打ち倒され、
痙攣する身体はやがて動かなくなり、
黒く焼けた大地に転がった。
空気には、オゾンと鉄臭い血の匂いが混じり合う。
王の足元では、地面そのものが白い煙を上げていた。
—カパルシアのために!—
フィリップ王が叫ぶ。
その声は雷鳴のように轟き、兵たちの心臓を強く打った。
—おおおっ!!—
兵士たちは一斉に応え、
稲妻と炎の中で武器を高く掲げる。
フィリップは戦場を見渡しながらも、決して冷静さを失わなかった。
背筋は伸び、足取りは揺るがない。
その姿は、まさに王の誇りそのもの。
自軍が、ダグラス家のような殺戮の精度も、
致命的な連携も持たないことは理解している。
だが、彼らには規律と勇気があった。
信じて立つ者たちの壁。
それが、王の軍だった。
それでも――
フィリップは自分を欺かなかった。
ダグラスが敵を数分で殲滅する一方、
自らの戦線は、ようやく耐えているに過ぎない。
敵を一人倒すために、
倍の労力と、三倍のマナを消費する。
剣が交わるたびに魔力は削られ、
鎧の重みと恐怖が、疲労となって積み重なっていく。
フィリップは歯を食いしばり、兵の列を見つめた。
このままでは、一時間も持たない。
やがて多くが力尽きるだろう。
そして――
戦場でマナを使い果たした戦士に、待つ結末は一つだけ。
死だ。
彼は中央戦線へと視線を移す。
そこではブルランスが、抑えきれぬ獣のように咆哮していた。
公爵は踏みとどまっている。
だが、陣形は確実に崩れ始めている。
さらに右――
死体の海の中で、黒き獅子の軍旗がなおも翻っていた。
ダグラス家は退かない。
一切、怯まない。
ローレンス・ダグラスは、
まるで死そのものを味方につけたかのように、前進を続けている。
フィリップは静かに息を吐いた。
そこに混じるのは、敬意と諦観。
「……ちっ、北の悪魔め」
魔法の閃光の中に立つ、黒き公爵の影を見つめながら、王は呟いた。
「中央が崩れたら……また、あいつに助けを求めるしかないな」
雷光に燃えるその双眸が、地平線をなぞる。
彼を包む嵐はさらに激しさを増し、
天は轟音を上げ、まるで彼を“選ばれし子”と認めたかのようだった。
その一瞬――
カパルシアの王は、雷に抱かれた神のように見えた。
世界が砕け散るその時まで、立ち続ける覚悟を宿した男。
やがて太陽が傾き始めた頃、
戦場はすでに赤く染め上げられていた。
ダラの前に広がる平原は、
動かぬ骸の海となり、
血と鋼が織りなす、凄惨なモザイクと化している。
それでも――
王国の三つの戦線は、なおも崩れていなかった。
兵たちは疲弊しきっていたが、
煙と砂塵の柱の中で、
その軍旗は誇り高く、揺らめき続けていた。




