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「三つの太陽の姫君」

風が、最初に訪れた。


乾ききった、重たい風。

鉄と灰の匂いを運び、悲劇の前触れとなる沈黙を孕んだ風だった。

カパルティアの城壁に立つ見張りたちは、それを“見る”よりも先に“感じ取った”。

そして――地平線の彼方で、土煙が壁のように立ち上がる。


正午の白い太陽の下、

帝国軍が姿を現した。


それは視界の果てまで広がる、黄金の染み。

完璧な同調で進軍する大軍勢だった。

盾は太陽光を受けて炎のように輝き、

赤き軍旗は、巨大な心臓が脈打つかのような律動で翻っている。


十五万の兵が、

叫ぶことも、ためらうこともなく進む。

黄金の竜の紋章を胸甲に刻みながら。


その後方には、鋼の怪物たち――

マナ結晶で駆動する移動式攻城塔、

そして戦のために調教された翼ある魔獣たちが続いていた。


響く音は、絶え間ない雷鳴。

まるで大地そのものが、その重圧に抗議しているかのようだった。


王国の主塔から、伝令たちは言葉を失った。

聞こえるのは風のざわめきと、

敵の到来を告げる鐘の音だけ。


王城の主バルコニーから、

王エルカーン、ダグラス公ローレンス、

そして諸侯たちは、黄金の潮流を無言で見つめていた。


評議員たちの顔は強張り、

ある者は威厳で恐怖を押し殺し、

またある者は、それを隠しきれずにいた。


ただ一人、ローレンスだけが視線を逸らさない。

黒き鎧の上で、太陽の反射が冷たく踊っていた。


その隣で、王が低く呟く。


「……第七皇女が来たか」

重々しい声だった。

「――あれは、帝国の後継者の紋章だ」


その日の夕刻、

まだ土煙が収まらぬうちに、

白旗を掲げた帝国の使者が到着した。


彼が携えていたのは、

“三つの太陽”の紋章で封じられた一通の書状。


第七皇女――

ナイラ・フェルッシ・ベッカーは、

夜明け前に王フィリップ・エルカーンとの会談を望んでいる、という招待状だった。


会談は翌日、両軍の中間に位置する不毛の地――ダーン平原で行われた。

そこは誰の領土でもない、血と砂だけが支配する境界線。

その中央に、一張りの巨大な白い天幕が設えられ、皇女直属の近衛兵たちが厳重に警護していた。


王エルカーンは、ダグラス公ローレンスと少数の騎士を伴って到着した。

無駄な言葉はない。

信頼など、最初から存在しなかった。


皇女が姿を現した瞬間、風が変わった。


真夜中のように黒い髪。

夜明けを思わせる色の瞳。

そして、磨き上げられたミスリルの鎧は、自ら光を放っているかのようだった。


彼女は静かに歩み出る。

一歩一歩が計算され、

一つ一つの仕草が、その場の空気を支配するために存在していた。


風が白い天幕を揺らし、鉄と不信の匂いを運んでくる。

二つの世界が向かい合い、

二つの呼吸が、同時に止まる。


ナイラ・フェルッシ・ベッカーは、

王フィリップ・エルカーンを見据えた。

それは、喉を裂く前に獲物を観察する捕食者の眼差しだった。


白髪。

朝焼け色の瞳。

虚偽の誓いを語るために刻まれたかのような唇。

彼の鎧のミスリルは、抑え込まれた太陽のように輝いている。


「私は父――三つの太陽を統べる皇帝フェルッシの名代として参りました」


声音は柔らかく、完璧に調律されていた。


「慈悲の言葉を、お届けに」


重苦しい沈黙が落ちる。


王の隣に立つローレンス・ダグラスは、

一瞬たりとも彼女から視線を外さなかった。

彼の目に映っていたのは“女性”ではない。

帝国の権力と傲慢によって鍛え上げられた、仮面の怪物だった。


皇女は続ける。


「帝国は、破壊を望んではいません。――望むのは、統合です」


“統合”という言葉が、

甘く、ゆっくりと毒のように滑り落ちる。


「ルシアン・ダグラスを差し出しなさい。

そうすれば、三つの太陽に誓いましょう。

カパルティアはその名を失わず、

土地も、王冠も、存続を許されます」


美しく、そして致命的な言葉が、空中に漂った。


王エルカーンは、机の下で拳を強く握りしめた。

脳裏に、望まぬ光景が浮かぶ。


――帝国の使者が、

ダグラス公妃ソフィアの前に立ち、

息子を差し出せと告げる場面。


それだけで、血が凍りついた。


彼女を恐れてではない。

――いや、彼女の力を知らぬ者など、この王国にはいないが。


問題は、その“意味”だった。

北部諸侯と王権の決裂。

内乱。

そして、取り返しのつかない政治的自殺。


この提案は、慈悲などではない。

王国そのものを内側から裂く、

あまりにも精密な刃だった。


もしソフィアが拒めば――そして、彼女は必ず拒む――

王国は内側から引き裂かれることになる。

帝国に壁際へ追い詰められた、その最悪の瞬間に。


そして、万が一にも――あり得ない話だが――彼女を差し出すことになったとして。

帝国の言葉を、誰が信じるというのか。


誰も信じない。


ルシアンを掌中に収め、王国が分断されたその瞬間、南への道は完全に開かれる。

もはや協定など必要ない。

ただ、踏み潰すだけでいい。


ローレンスも、それを理解していた。


皇女の提案は、条約ではない。

巧妙に飾られた罠だ。

疑念を蒔き、士気を削ぎ、最初の一撃が放たれる前に、内側から亀裂を生じさせるための一手。


ナイラは、あの完璧に整えられた微笑みを崩さなかった。

その微笑みは、彼女の教育そのものだった。


彼女の頭の中では、すべてが整然と並んだ盤上の駒にすぎない。

王国の者たちは、迷信にすがるだけの農民。

帝国の栄光に吸収されることを、感謝すべき原始的な民。


それが、彼女が幼い頃から叩き込まれてきた“真実”。

そして、疑ったことなど一度もなかった。


だからこそ、彼女はあまりにも自信に満ちた声で語った。

言葉の重さも、刃となる意味も、測らぬままに。


――致命的な過ちだった。


それは、戦場の傷を一つも持たぬ者だけが犯す過ち。


王エルカーンは、即座にそれを見抜いた。


あれは「慈悲」などではない。

明確な挑発だ。


甘い声と、憐れみを装った視線の奥にあるもの。

それは――すべてを知っているつもりで、

それでもなお「決して屈しない敵」と向き合ったことのない、幼い皇女の姿だった。


天幕の中は、完全な沈黙に包まれていた。

聞こえるのは、松明の爆ぜる音と、王国の城壁から吹き下ろす風の低い唸りだけ。


ナイラ・フェルッシ・ベッカーは、王エルカーンを静かに見つめていた。

真の王位継承者だけが纏うことを許される、完璧な平静を装って。


背筋は真っ直ぐに伸び、顎は高く、視線は揺るがない。

三つの太陽の後継者。

同世代すべてを打ち破った神童。

帝国の賢者たちがこう呼んだ存在――


「王として生まれる運命の娘」。


だが、その静謐な仮面の奥では、

自らの「完璧さ」を証明する瞬間を前にした者の高揚が渦巻いていた。

彼女は長い年月を、戦術、外交、戦争術の修得に費やしてきた。

何を言うべきか。

いつ言うべきか。

そして、盤上の駒をどう動かすべきか――

すべて理解している、はずだった。

「和平を提案しに来ました」

その声は、撫でるように柔らかい。

「ルシアン・ダグラスを差し出しなさい。

そうすれば、帝国はあなた方の民を守りましょう。

拒むのなら――待っているのは、滅びだけです」

ローレンス・ダグラスの背筋を、冷たいものが走った。

(和平、だと……?)

胸中で、苦く吐き捨てる。

(その口から出る“平和”は、罠の臭いしかしない)

一瞬、彼は想像してしまった。

もしソフィアがこの提案を耳にしたなら――

公国の魔獣が使者を喰らい、

大地が炎と血で覆われる光景を。

首筋を、冷や汗が伝った。

一方、王エルカーンは微動だにしなかった。

老いてはいるが、愚かではない。

彼は、ナイラが生きてきた年数よりも多くの勝敗を経験してきた男だ。

若き皇女は、彼を怯えさせる存在ではない。

ただ――苛立たせる存在だった。

「“和平”と申されるか、皇女殿下」

低く、重い声が響く。

「だが、我が耳に届くのは要求だけだ。

略奪を、慈悲と呼ぶおつもりか?」

ナイラは微笑んだ。

追い詰めた――そう確信して。

「避けられぬ未来を回避することを、私は慈悲と呼びます。

帝国が征服するのは、気まぐれではありません。

それは――運命なのですから」

完璧な一文だった。

帝国の修辞学の師たちが、

“敵と対峙する時に口にせよ”と教え込んだ決まり文句。

対話のためではない。

屈服させるための言葉。

だが――

学舎の外では、言葉だけでは足りなかった。

知識は、経験の重みに抗えない。

エルカーンは彼女を見つめた。

その視線には、哀れみと軽蔑が同時に宿っていた。

(傷なき女王……

まだ、“命令する代償”を知らぬ)

ローレンスは静かに視線を落とした。

もはや、交渉の余地はないと悟りながら。

「戦争は、今ここで決まったのです、皇女」

そして、低く告げる。

「――どうか、あなた方に神々の慈悲があらんことを」

ナイラの表情は崩れなかった。

だが、その後に訪れた緊張は、あまりにも濃密で――

風でさえ、天幕の中へ入り込むことを躊躇った。


彼女がその場を去ると、従者たちは軍人らしい足取りで後に続いた。

周囲の将軍たちは、誇らしげな視線を彼女に向けていた。


だが――

ナイラの胸にあった思考は、ただ一つ。


(ルシアン・ダグラス……すぐに、あなたは私のものになる)


その時はまだ知らなかった。

それがすでに――

彼女にとっての「最初の教訓」の始まりであったことを。



玉座の間には、重く粘つくような沈黙が満ちていた。

それを破るのは、軋む木材の音、松明の揺らめき、

そして焦れた鎧がわずかに擦れ合う金属音だけ。


王フィリップ・エルカーンと、ローレンス・ダグラス公は、

帝国の皇女との会談から戻ったばかりだった。


貴族たちは彼らを待っていた。

まるで、狩人の気配を嗅ぎ取った獲物のように、緊張を孕んで。


ナイラ・フェルッシ・ベッカーの要求が語られた瞬間、

冷たいざわめきが広間を走った。


最初に口を開いたのは、ブリッグス公だった。

その声は、かすかに震えている。


「も……もし、あの皇女の言葉が真実であるなら、陛下……

その少年を引き渡せば、戦争を避けられるのでは……」


――引き渡す。


その言葉は、誇りの湖に投げ込まれた石のように響いた。

視線が交錯する。

迷いを帯びたもの、恥を宿したもの。


沈黙を破ったのは、ブールランスだった。


「戦争を避ける、だと?」


卓に両手を叩きつけ、吐き捨てる。


「すでに剣を城壁に向けている帝国と、何を交渉するという?

あれは慈悲ではない。宣告だ」


そして、皮肉な笑みを浮かべて付け加えた。


「それに――

誰が勇気を出して、ソフィア公爵夫人に

“息子を差し出せ”などと言いに行く?」


ブリッグスは椅子の中で身を縮めた。


「……わ、私ではない」

そう呟き、視線を伏せる。


想像しただけで、血の気が引いた。

ソフィア・ダグラスの怒りは、噂だけで人の背筋を凍らせる。


「では……どうすれば?」

別の貴族が、不安に震える声で問う。


「時間を稼ぎ、防備を整え、他の家からの援軍を待つことは……」


――ドン、と乾いた音が響いた。


王が杖を床に突き立てたのだ。


燃えるような眼差しが、広間に集う全員を薙ぎ払う。


「誰も来ぬ!」


雷鳴のような声が、壁を震わせた。


「臆病風に、魂を奪われるな。

恐怖に、義務を曇らせるな」


王は続ける。


「帝国が何を要求しようと関係ない。

我らは何一つ渡さぬ。

土地も、子どもも」


一拍置いて、低く告げた。


「与えるのは――

我らの誇りと、剣の切っ先だけだ」


沈黙。

完全な、絶対的な沈黙。


誰一人、言い返すことはできなかった。

恐れを抱く貴族たちは俯き、

その決断が奈落の縁へ自分たちを導くことを悟っていた。


玉座の傍らで、ローレンスは黙って老王を見つめていた。

そこに弱さはなかった。

あるのは、赤熱した鋼のような決意。


(これが――戦争を前にした王の姿か)


フィリップ・エルカーンは、ゆっくりと頷いた。

まるで歴史そのものと契約を交わすかのように。


「では、決まりだ」


その声は、静かでありながら威厳に満ちていた。


「取引はしない。

カパルシアは――戦う」


ざわめきが広間を満たす。

恐怖と誇りが、ない交ぜになったざわめき。


多くが帰らぬと、誰もが理解していた。

だが、自由の代価が死であるなら――

彼らは顔を上げ、その代金を支払う覚悟だった。


その時、風が広間の隙間から吹き込み、

王国の旗を大きく揺らした。


そして、誓いに応えるかのように――

城壁の彼方から、最初の戦鼓の咆哮が鳴り響いた。

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